私たちは「ふるさと」という歌をよく知っています。『うさぎ追いし、かの山、こぶな釣りし、かの川。夢はいまもめぐりて、忘れがたき、ふるさと。』「ふるさと」の言葉を書いた高野辰之は、私が30代住んでいた信州中野市出身でした。「ふるさと」は、高野さんの故郷この信州の風景を描いたものだと言われています。。。曲を書いた岡野貞一は、15歳の頃、出身の鳥取県から岡山へ移り、クリスチャン系の中学校に行きました。そこで、アダムズというアメリカ人宣教師に音楽の才能を認められ、東京芸術大学で学び、多くの歌を作りました。彼は、熱心なクリスチャンで、40年間以上、毎日曜日には東京の本郷中央教会で礼拝や聖歌隊の指導しました。「ふるさと」は、賛美歌のメロディからヒントを得たそうです。
アメリカ人以上に、日本人にとって、ふるさと(自分の故郷)は、とても大事です。お盆やお正月で、多くの方は、里へ帰ります。。。でも、例えば、年末年始であっても、どんなに里に帰ったとしても、何かが足りないのです。思い出はありますが、寂しさが残るのです。前と違うのです。。。。。なぜなら、私たち皆んなの心に、真の故郷である造り主の思い出の何かがあるのです。真のふるさとは、天地を造られた生ける神にあるからです。創世記1:1「はじめに神が天と地を創造された。」聖アウグスティヌスは、こう言いました。「あー主よ、あなたは、ご自身のために私たちを造られた。そして、私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、けして安らぎを得ることができない。」。。今日は、創世記1:1―2:3を見て、三つの質問に答えたいです。誰に安らぐのか?誰が安らげるのか?安らぐのは大事なのか?
1.創世記1:1―31、誰に安らぐのか?聖アウグスティヌスが「あー主よ、あなたは、ご自身のために私たちを造られた」と言ってように、造り主に安らぐのです。1節「初めに、神が天と地を創造した。」他でもなく、造り主に安らぐのです。
1968年12月24日のクリスマス・イブのことでした。世界中がテレビに釘ずけでした。アパロ8号が月を回っていて、宇宙飛行士たちが不思議なことをしたのです。聖書の創世記1章の最初の10節を読み始めたのです。。。宇宙飛行士ウィリアム・アンダーズが先ず、こう言いました。「私たちは、月の日の出に向かっています。そして、アパロ8号の乗員は、地球の全ての人々に送りたいメッセージがあります。」で、彼は、創世記1:1−4を読み始めました。「初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく何もなかった。闇が大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。神は仰せられた。『光よ、あれ。』すると光があった。神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。」。。次、宇宙飛行士ジェームス・ロベルが読みました。「神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。」。。最後まで、フランク・ボルマン宇宙飛行士が読みました。この創造主に憩うのです。。。ニューヨーク市立大学の理論物理学者ミチオ・カク氏は、こう書きました。「人は知的存在の創造した世界に生きている」「ともかく、偶然と呼ぶ一切のものは、もはや意味をなさない。神の存在こそがこのことを説明し得る。われわれは、宇宙的知的存在が創造し形成した法によって支配されている、ある計画の中に存在しているのであって、偶然に存在しているのではない。これははっきりしている。」。。。誰に安らぐのですか?この天地宇宙全てを造られた恩方に安らぐのです。
創世記1:2、最初は、何もなかったのです。空っぽで闇の世界でした。でも、3節、神様は、光を造られました。6節、海と大空を造られました。9節、大地を。11節、木々、草と花。14節、星、太陽、月。20節、鳥、魚、動物。そして、最高の者として、26節、アダムとエバをも造られました。。。『私たちは、どこから来たのでしょうか?』私たちは、神様によって造られたのです。神様は、全てを造られたのです。また、神様は、信じられないような力で造られました。さらに、神様は、愛を持って全てを造られました。31節「神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」とあります。なぜなら、神様ご自身は、非常に良いお方ですから。
誰に安らぐのか?他のものに憩うのは、危険です。人間は、弱いです。自然界は、厳しいです。この宇宙と人間を人格的に造った良い造り主に憩うのです。自分、家族、仕事は、私たちのふるさとではないのです。造り主が私たちの故郷なのです。「あー主よ、あなたは、ご自身のために私たちを造られた。そして、私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、けして安らぎを得ることができない。」
2.1:26―28、誰が神様に安らげるのか?被造物や動物ではなく、人間です。なぜなら、動物と違って、人間は、26−27「神の形に造られた」からです。
インタネットにこれがありました。「人間と他の動物との違いは何か?。。。『道具を使う動物は、人間だけだ。』こんな主張がある。ところが、チンパンジーの中には、蟻塚の白蟻を食べるために木の棒を使うものがいる。また、石を落として他の鳥の卵を割って食べる鳥もいる。。。一歩推(お)し進めて『道具を作る動物は、人間だけだ』という主張が出てきた。しかし、チンパンジーたちは、ただ落ちてる木の棒を使うのでなく、使いやすく加工して使っている。。。他の一派は『言葉を使う動物は、人間だけだ』と主張した。しかし、イルカの群れは会話をしていると言われており、鳴き声の意味の解析も進められている。。。別の一派は『人間とは「宗教」とか「哲学」といった抽象概念を持つ動物である』と主張している。これは、案外あたっているかもしれない。「宗教」とかいう奴(やつ)は、。。。まさしく人間特有のものと言っても良いだろう。」。。そうです。神を拝めることは「神のかたち」の一つです。動物や自然界と違うのです。神様に安らげるのです。
26節前半「神は仰せられた。『さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。』」強調するかのように、27節「神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」。。『神の形』とは、何でしょうか?神は、霊ですから、体のことではないです。でも、人は、造り主とても違いながらも、似ているところもあるのです。。。神様に思考力や考える力があるように、私たち人間にも、考える力があるのです。ブレーズ・パスカルは、こう書きました。「 人間は自然のうちで最も弱い葦の一茎(ひとくき)にすぎない。だがそれは考える葦である。」人間は、弱いが、でも、考える存在であるのです。それは、神から来たのです。。。神様に意思があるように、人間にも、意思があるのです。神様に感情があって、笑ったり、泣いたり、怒ったりするように、私たち人間にも感情がるのです。先ず神に人格があるから、人間に人格があるのです。神様は、霊ですし、私たちにも霊があるから、コミュニケーションとれるのです。私たちは、神と違いながらも、神と交わりをするための似たもがあって、神様と交わる可能性があるのです。ですから、動物と違って、神に安らげるのです。あなたも、造り主に憩えるのです。
3.2:1−3、安らぐのはどこまで大事なのか?神様は、素晴らしい知恵と力をもって、天地宇宙人間を造りました。そして、人間は、造られた後、先ず、何をしましたか?安息したのです。3:1「天と地とそのすべての万象が完成された」後、2節後半、神は「なさっていたすべてのわざを休まれた」とあります。人間は、他の何をもする前に、神様とともに休んだのです。人間は、先ず、安息し、安らいだのです。。。この安息という言葉は「止める、止まる」という意味があるのです。人間の心に叫び、もがき、苦しみがあるのです。もがき、あげくのを止め、生ける神に安らぎ、憩い、神を喜ぶのです。
そして、聖書全体を読むと、安息は、とても大事な命令でもあります。「安らぐのは、極めて大事だよ!安らぎなさい!」と言われているのです。。。暴走している社会の中で私たちは、どのようにして安らぐのでしょうか?例えば、仕事の合間にいわゆる『一服』するのです。夜ちゃんと睡眠とるのです。週末に静まるのです。休暇を取るのです。。。でも、また、2:1−3「安息日」を必ずとるのです。2−3節に「第七日目」と言う言葉が三回も書かれています。その日に、2節、3節、後半、「なさっていたすべてのわざを休まれた」とあります。3節「神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた」とも書いてあります。「聖い」であるから、とても大事な日なのです。安らぐおは、極めて大事です。。。私たちにとって、大事な言葉は「思い切って」です。日曜日とその時の礼拝のために仕事、勉強、家事を「止める」ことです。そして、他のクリスチャンと共に、神様を思い、主イエス・キリストに安らぎ、恩方を喜び崇めるのです。引っ張るものは、多いですから、すごい努力が必要です。「思い切って」決め、実践するのです。。。昔の日本では、週末には、休みを取らなかったのです。休みは、お正月や祭りの日しか取らなかったのです。西洋やキリスト教が入って来て、日曜日の主の日、安息日、が慣習になったのです。戦後1947年に日本国憲法の労働基準法になったのです。。。私たちは、安息日に先ず、一週間の騒ぎから心を休める必要があるのです。礼拝も、先ず、主とその恵みに憩うことを強調しなければなりません。
*止まって、考えてください!天地・宇宙・人間を造って、2−3、全てを「なさった」のは、誰ですか?人間ですか?いや、人間ではなく、造り主なる神です。全てを「なさった」この恩方に安らぐのです。パスカルは、こう書きました。「一人々々人間の心に神の形をした空洞があり、イエス・キリストを通して知られる造り主なる神のみを通して満たすことができる。」私たちは、仕事、家庭、娯楽なで自分の心の空洞をいろんなもので満たそうとします。でも、無理なのです。なぜなら、「神の形をした空洞」ですから。また「イエス・キリストを通して知られる造り主なる神のみを通して満たすことができるから」です。主イエスはが全て「なさった」のです。十字架上で。
日本人は、自転車をこいでいる人に例えられています。常にこいでいなければ倒れるのです。でも、多くの日本人は、疲れはてているのです。朝起きて、歯を磨いて、朝ご飯食べて、会社まで行って、仕事をこなして、家に帰って、夕ご飯食べて、お風呂に入って、テレビを見て、寝る。家内のふるさと香川県だったら「昨日もウドン、今日もウドン」、繰り返し繰り返し、同じことをする、同じ仕事をする。仕事においても、何の益になるのか分からないので、疲れはててしまうのです。ある人は、疲れはてて、燃え尽きたりしまいます。極端の話は、過労死になったり、また、人生を”いや!”になって自殺までしてしまいます。。。でも、創世記2:1−3を読むと『人間が、何一つ仕事であれ労苦をする前に、たとえ何も出来なくても、造り主に喜ばれて、その恩方にい憩えるのです。』。。私達人間が、造り主から離れ迷っていることを認め、創り主に’里帰りする’のです。創り主に安らぐと、仕事だけではなく、人生全てにも意義が与えられるのです。私達は、自転車のブレーキをかけ、降りて、立ち止まり、止め、安息するのです。回りの自然を見て、造り主の恵み、また、造り主御自身を喜び楽しむのです。。。疲れすぎて、完全に倒れる前にしませんか?
私たちの負い目を十字架上で負って、全て償った主イエス・キリストは、聖書マタイ11:28で、こう言っています。「全て、疲れた人、重荷を負うっている人は、私のところに来なさい。私があなたがたを休ませてあげます。」