聖書・出エジプト記 20:14「姦淫してはならない。」マタイ 5:27−30「 『姦淫してはならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。」
日本のお笑いのテレビであまりにも「不倫」の冗談を聞きます。番組に出る女性達も、あまり喜んでいないような気がします。。。敬虔なクリスチャンでもあるアメリカの元大統領ジミー・カーターは、純粋に「情欲を抱いて女性を見る時がある」と言ったら、メディアがそれ取り上げて、彼をバカにし、何ヶ月もトークショウで笑い者にされました。。。クリントン元大統領のセクス・スキャンダルの頃、多くの方は「関係ないでしょう!プライベートだから。」仕事さえすれば、結婚の誓約を破ったり、奥さんを悲しませたりしても良いのです。。。昔のローマ帝国の頃、多くの場合、妻は、ただ跡取りを残すための手段でした。男性の性的願望は、結婚以外で満たしていたのです。ローマの人々は、色んな不道徳な行動を許していました。キリスト教と対照的でした。クリスチャンは、誠実を主張していました。ロドニー・スタークス博士は、このように言っています。「妻以外は、全てのものを共有する」と教会は言っていました。「妻以外は。」当時、これが女性をキリスト教に引きつけていたのです。性道徳に関しては、妥協はなかったのです。キリスト教は、堕胎、女の子の児童殺害、ほとんどの離婚、児童婚、同性愛を強く非難していました。クリスチャンの夫婦には、子供が多くいて、もっと安定していた家庭でした。男性3分の2のローマ帝国では、教会の3分の2は、女性でした。キリスト教は、女性にとってとてもポピュラーでした。。。聖書は『性』について何を教えているのでしょか?
1。聖書は、結婚以外の性的関係を全て拒否している。文字通り、出エジプト記20:14「姦淫してはならない」のです。ただ二つの言葉だそうです。「姦淫」と「してはならない」。100%ダメなのです。神様は、私たちの生活のあるゆる部分に深い関心を持っています。性を含めて。結婚前の性的関係も、結婚中の夫婦以外の性的関係も、同性愛も、一夫多妻も、禁じています。あなたは、相手と、精神的に、人格的に、社会的に、経済的に、法的に、一心同体になりたくなければ、セックスしてはだめ、と命じているのです。。。マルコ10:19で主イエスは「姦淫してはならない」を「殺してはならない」の先に言っています。この箇所の順番と逆です。私たちの純潔は、命ほど大事だからです。姦淫も、命取りだすからです。
ある人は、体の姦を淫犯していないから、それだけで御言葉に従っていると思っているのです。17節「あなたの隣人の妻を、欲しがってはならない。」マタイ5:27−30で主イエスは、行動だけではなく、心の姦淫を禁じています。28節「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。」主は、徹底しているのです。。。例えば、現代では、ポルノも、拒否しているのです。インタネットで、誰にでも知らずに、すぐ見れます。辞めなさい!命取りですよ!。。。マルテン・ルターは、こう言いました。「頭の周りに鳥が飛ぶのを止めることはできないが、でも、髪の毛の中に巣を作るのを止めることはできる。」間違った思いが頭に浮かんでくることは、止められません。が、続けて心に抱くことは、止めなければなりません。
結婚以外の性的関係は、心であっても、極めて危ないです!『自由なセックスは、危険であっても、権利である』と言ってしまう人がいます。でも、妻・夫でない人とセックスすると、性欲にがんじがらめになり、29−30「ゲヘナ」(地獄)までに至る、とあります。「ゲヘナ」は、エルサレムの外にあったゴミ捨て場で、破壊崩壊を意味します。「性」には、すごい力、癒す力、壊す力があるからです。誰かとセックスをすることは、その人と一心同体になることです。心まで力強く影響されるのです。『セックスしたいが、結婚したくない』と思うと、心に対して暴力を犯す、とある人は言いました。結婚内でセックスすると、結婚の誓約、そのコミットメントを繰り返しているのです。結婚意外ですると、コミットメントと誓約を破壊してしまうのです。
「砂糖は、美味しいが、あなたにとって死を意味するよ」と医者は糖尿病患者にいうでしょう。患者は「死んでも良いけど、権利がある!」とは言いません。死ぬまでは、砂糖は欲しくはありません。「じゃー辞めとく」と言います。結婚以外の性は、危険で、命取りで、止めるのです。。。性は、結婚の中で納めるのです。素晴らしいですよ!でも、セクスは、火のようなものです。暖炉の中では、美しいし、温まります。でも、火がじゅうたんに広まってしまうと、全部燃えてしまうのです。。。コタツの向こうの座布団に火がつきます。が、こう言うのです。「大丈夫!向こうだから。小さい火だし。」愚かです。NO!自分自らからコントロールしたほうがいいですよ!。。。姦淫は、家族関係、夫婦関係、親子関係、信頼関係、人間関係を損ねてしまいます。夫婦関係で信頼出来なければ、どうやって社会全体で信頼し合おうことできるでしょうか?
2.聖書は、結婚以内の性的関係をとても賞賛している。ある方は、キリスト教を禁欲主義のように見てしまいます。いやいや!。。。もちろん禁じているものはあります。が、性に対する教えは、キリスト教の魅力的な点の一つです。。。宗教改革の前、カトリック教会は、独身状態をあまりにも高くあげました。また、一年の183日は、聖日(聖別された日)にして、夫婦は、性的関係を持ってはならなかったのです。宗教改革は、それをくつがえしました。ピューリタンは、聖書を読み「性は、神のからのプレゼント!素晴らしい!」と言いました。セックスは、聖なるもので、楽しむものです。なぜなら、神様は、性を造ったのです。1テモテ4:4「神が造られた物はみな良い物で、感謝して受けるとき、捨てるべき物は何一つありません。」雅歌(がか)は、夫婦の性的愛を歌っているのです。しっかり調べると驚きます。
「姦淫してはならない」を肯定的に見ると、夫と妻という「隣人を自分のように愛する」ということです。エペソ5:33「自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。」結婚式で約束をしています。「幸せな時も、困難な時も、富める時も、貧しき時も、病める時も、健やかなる時も、死がふたりを分かつまで愛し、慈しみ、貞節(ていせつ、聖さ)を守ることをここに誓います。」気持ちが進まない時も、コミットメントするのです。。。性そのものは、結婚の誓いを新たにし、自分を捧げる特別な行為です。「私は、完全にずっとあなただけのもの」と伝える行為です。セックスする時は、取る時ではなく、与える時です。本当の男は、自己中心に生きるのではなく、性的な罪を克服し、十字架的に、犠牲的に妻のために生きるのです。エペソ5:25「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」。。どうでしょうか?達していますか?。。。
ここまで愛する原動力は、どこからくるのでしょうか?聖アウグスチナスは、こう言いました。「クリスチャンの戦いの中では、一番大変な戦いは、純潔である。なぜなら、毎日終わらない戦いであり、純潔は、あまり勝利しないからだ。」自分自らは、無理です。「頑張りまーす!」はあまりにも足りないです。。。ものの見方を変えなければなりません。
先ず、人を神のように期待しない事。私達は、結婚相手を神にすると、挫折します。人は、神のように期待できないのです。アーネスト・ベッカーは、こう書きました。「われわれが恋愛の相手を神の位置に高めるとき、そもそもいったい、何を望んでいるのだろうか。われわれが望むのは贖いであり、それ以外の何ものでもない。われわれは自分の欠点や自分が無意味だという感情を取り除きたいと思っている。われわれは正当化されることを、つまりわれわれが創造されたのは決して無駄ではなかったことを知りたいと思っているのである。… いうまでもなく、人間の相手ではこれはできない相談である。」 先ず、人には、期待しないのです。神でないからです。
次、神を期待する事。妻や夫を愛し敬う、罪に勝つ最大の秘訣は、栄光の神を、十字架まで行ってくださった神を、心から喜び、崇めることです。トマス・チャルマーズは、こう書きました。「古い自分が恋い慕っている何かを廃棄する唯一の手段は、それを排出できるだけの力を持った新しい存在を手にすることだ。… むしろ、この世界よりも大きな神の愛に自分の心を向けるため、あらゆる合法的な手段を試みよ。」より大きな愛、十字架の愛、主の愛に魅了されるのです。で、妻・夫を大切するのです。
妻・夫を愛しにくい時、性的誘惑と戦う時、生ける神の麗しさを思い、福音とキリストの苦しみを覚えるのです。セックスの欲求と戦う時、神様に行って、神様に魅了されるのです。失敗すると、失望しないのです。誘惑に失敗すると時『主イエスは、誘惑に勝った!』と覚えるのです。そして、主の血潮は、私の罪を覆う恵みを知るのです。私が不真実な時、主は、常に真実なのです。自分の罪を十字架を通して見るのです。この主の恵に生きると、清く保ちやすくなるのです。。。祈りによって、神のあわれみと助けを得るのです。「悪から救ってください!」と。。。罪と縁を切る、主に従う、夫・妻を愛する決意をするのです。。。主の真実な愛に感動すればするほど、夫・妻を愛する原動力が与えられるのです。
あなたの性的欲求を主に委ねるのです。このように言うのです。「主よ、私は、結婚外の性的関係をしません。そして、文句を言いません。感謝します。委ねます。」。。ある王様は、国民にあいに、ある村行きました。『魔法の王』と皆んなは言っていました。道の端にいたある貧しい人が皿を王にだし、待っていました。代わりに、王は貧しい人に『私に何かをくれ』と言いました。驚いた貧しい人は、王に三粒のお米をその手に入れました。王は「ありがとう!」と言って、行きました。貧し人が皿を見たら、金貨三つありました。彼は、こう言いました。「全てを上げたら、よかったなー!」自分の性的欲求を本当に神様に委ねるのです。
独身のあなたに話したいです。ほとんどの人は、独身であっても、結婚してても、不幸せなのです。私ダビデは、とても幸せです。が、それでも、結婚は、心の奥底まで私をあなたを幸せにはできません。そのためにあるのではないのです。。。あなたは、最も美しい人、最もハンサムな人、あなたを完全に愛してくださる人、を探していますか?そんな人はいません。あなたは、神の愛を体験しなければ、人を真実に愛せないのです。神に満足を得ないと、他の人の人生も、自分の人生をもめちゃくちゃにします。。。イエス様のみがあなたを完全に愛してくださるのです。神の愛に魅了されなさい!。。セックスというものは、道しるべです。他のものを指しているのです。指しているお方を仰ぎ見るのです。
花婿は、チャペルの前で待っています。花嫁は、彼に向かって行きます。そして、彼女を見るのです。花婿にとって、彼女は、輝いているのです。。。神様があなたをそのように見ていることを信じ、喜ぶのです。それが分かり始める時、結婚とセクスが変わり始めるのです。神様を期待していると、夫や妻に対する無理な期待をしません。主イエスのみが本当に信頼できるお方ですから。本当に麗しいのは、主イエスのみです。彼の真実な愛のみがあなたを満たします。その愛によって愛するのです。。。詩人ジョージ・エイベアは、神様についてこう書きました。「あなたこそ私の愛するすべて、私の命、私の光、私にとってこの上ない美しさ。」