2020年11月9日月曜日

Forgiveness flounders because I exclude the enemy from the community of humans even as I exclude myself from the community of sinners.


“Forgiveness flounders because I exclude the enemy from the community of humans even as I exclude myself from the community of sinners. But no one can be in the presence of the God of the crucified Messiah for long without overcoming this double exclusion — without transposing the enemy from the sphere of the monstrous… into the sphere of shared humanity and herself from the sphere of proud innocence into the sphere of common sinfulness. When one knows [as the cross demonstrates] that the torturer will not eternally triumph over the victim, one is free to rediscover that person’s humanity and imitate God’s love for him. And when one knows [as the cross demonstrates] that God’s love is greater than all sin, one is free to see oneself in the light of God’s justice and so rediscover one’s own sinfulness.” Miroslav Volf


2020年11月7日土曜日

Revival


 “Revival,” says Martyn Lloyd-Jones, “above anything else, is a glorification of the Lord Jesus Christ, the Son of God. It is the restoration of him to the centre of the life of the Church.”


「リバイバルは、何よりも、神の子、主イエスキリストの栄光が帰されること。教会の生活の中心にキリストを回復することである。」D.M. ロイドジョンズ





2020年11月6日金曜日

An Uncorrupt Administration.......


A BLAMELESS LIFE. This is a psalm of David. The claims to be "blameless" (verses 2-3) and to have "nothing to do with what is evil" (verse 4) are not pharisaical delusions of moral purity but a king's desire for an uncorrupt administration ("house", verse 2). He won't allow slander (verse 5) or dishonestly in his politics (verse 7). He seeks justice in the land (verse 8). This is a great set of ideals for all in government. But it also chastens, exposing how far human societies fall short of the vision. Most tragically, we know David and his son Solomon, the greatest of Israel's kings, themselves violated this standard. "Happily the last word is not with David.... but His Son. There, there is no shadow."

Prayer: Lord, I pray for the leaders of states and nations, of business and commerce, of the arts and cultural institutions. I pray that honesty, wisdom, skillfulness, justice, and virtue characterize all their duties, and that their work be a public blessing. Amen.

From The Songs of Jesus by Timothy Keller


2020年11月1日日曜日

クリスチャンの金言 by A・W・トウザー




「多くの人が未だに悩み続け、求め続けていながら、ほとんど進歩らしい進歩を遂げていないのは、彼らがまだ自分の限界に達していないからです。私たちは未だに自分の考えで物事を進め、神が私たちを通して働かれようとしているのに、それを邪魔しているのです。」
「私たちが最もしなければならないことは、
『わたしはある』という神のために場所を設けることである。」
「信仰とは、本質的に言うと、被造物たる人間の、
創造者つまり神に対する応答にほかならない。」
「偶像礼拝の本質は、真の神にふさわしくない神に関する考えをもてあそぶことだ。」
「聖書に掲示された権威によって確信をもって言うが、
この地上のどんな人でも、もし礼拝がつまらなく、
暇な時間であるなら、その人は天国への準備ができていない。」
‎「神は最高だと解らない限り、
だれも神を正しく礼拝することはできない。」
「お金は多くの場合卑しむべきものであるが、永遠の宝へと姿を変えることもある。お金は空腹な人の食事となり、貧しい人の衣類となる。失われた人々の魂を勝ち取り福音の光へと導く宣教師の精力的な働きが、継続して行なわれるために用いられる。
そのようにしてお金は、天的な価値を持つものに姿を変えるのである。どんな一時的な所有物も永遠の富に変えることができる。キリストにささげられたものは、即座に不滅のものとなる。」
「救いは、私たちの側では選択ですが、
神様の側では私たちをとらえ、理解し、導こうとする
いと高き方の介入です。
ですから、私たちが救いを受け入れることは反応であって、
行為ではありません。選択の決断は、
いつも神様の御手にあります。 」
「私が雄弁で、神学的な用語で神様に祈るのではなく、
ただ黙って、上を仰ぎ見、神様が私に話す時まで待つと、
神様は私が鉛筆とノートで書かなければならないほど、
私の心に力強く語られます。 」
「聖なる人生でなければ、幸せな人生ではありません。
神様の御心を知り、行うためにすべてを費やす者は、
幸せな人生をキリストに任せている者です。」
「人々の行動が聖いものか世俗的なものかを決めるのは、
その人が何を行うのかではなく、
その人がなぜそれを行うのかによります。」
A・W・トウザー(1897~1963)アメリカの牧師、説教者、著述家、「20世紀の預言者」

2020年10月30日金曜日

「福音化」


 私は、自分自身と教会の「福音化」が極めて重要だと思います。全ての聖書の理解は、福音中心、キリスト中心、恵み中心、十字架中心でなければならない、と確信しています。主に従う事は大事ですが、先ず、主が十字架までに従ったことを喜んで、そして従うのです。聖書知識で終わらない、そのテーマである神の愛に感動する心です(小畑進)。暗いかたい教会には、キリストの福音の喜びが必要なのです。キリスト者も、常に福音が必要なのです。ロイドジョンズは「教会に最も必要なのはリバイバルである」と言いましたが、私は、その次に必要なのは、教会と個人に福音化だと思います。それがされると、リバイバルの準備となる、と思います。


全てにおいて、福音を適応するのです。クリスチャン生活「クリスチャンにとっての素晴らしいニュースは、私たちの冷たく、かたくなな心のための神様の治療法があるということです。その治療法は、人の心を変える福音の力にあるのです。そしてその治療法は、私たちの再生だけでなく、私たちがキリストの似姿に変えられることをも目的とします。そしてその目的は、ただ単に罪の赦しを得させるだけでなく、私たちを真実に神を礼拝し、人々を愛する者へと変えるのです。」スチーブンチルダズ

教会「教会の福音伝道に無くてならないものは、長老教会の裃ではなく、福音そのものの輝きではありませんか。十字架と復活の福音は、それを聴く者に、罪の赦しと永遠のいのち、そして神の子とされる特権を与えます。この福音が率直に告げられ、受け入れられる礼拝は、神の恵みへの感謝の応答として、明るく楽しく、愛と喜びに満ちています。それこそ、救いを求める人々の必要に応えるものなのです。」村瀬俊夫

説教「福音中心、恵み中心、キリスト中心の説教が語られるべきだということ。恵み中心ということは、自分自身の生き方に焦点を点当てて、罪悪感や自分の行いからではなく、神からの愛によって私はきよくなりたいという願いを伝えることです。神の愛を深く知ることによって、人はきよくされるのです。」ブライアンチャペル

子供や日曜学校「聖書は、きそくだらけの本でもヒーローだらけの本でもないんだ。聖書、全部一つにつながったお話だ。たとえば、まるで危険をかえりみず、遠い国から失われたたから物をとり返しに行くゆうかんな少年のぼうけん物語。たとえば、愛する人を救うため、すばらしいお城もかんむりも、すべて投げ出す気高い王子さまの愛の物語。それは、今まで聞いたことのあるわくわくするおとぎ話が全部、本当に起こったという本なのだ。」ジーザスバイブルストーリー 

福音化が私にこだわりです。これが私、教会と日本の喜びと幸いに必ず繋がると確信しています。

2020年10月14日水曜日

『どうして?』 十字架の意義 マタイ27:45―53


先ずマタイ27:45ー53を読んでください。

日本人は、とても故郷を大事にします。特別な思い出があるのです。「ウサギ追いしかの山。こぶな釣りしかの川、夢は今も巡りて、忘れがたき故郷。。。」私の故郷信州を描いた童謡ですね。。。でも、あまりにも期待して、故郷に帰ると、がっかりします。テモシー・ケラー牧師はこう書いています。「一口に『ホーム』(古里)といっても、それは、私たちにとって影響力の強い、けれども同時に、何ともつかみどころのない概念だと言えます。」お正月で、期待して故郷に帰って、がっかりした事は無いでしょうか? CSルイスは、私たちは、本当は『(心の内に)霊的にホームシックだ』と言っています。。。私たちは、常に放浪の旅をし、心の里になかなつけないのです。

 

30年ほど前、日本のコメティ映画「渋滞」を見ました。秋葉原の電気店販売課長の林蔵(りんぞう)は、妻春恵と2人の子供と一緒に浦安に住むごく普通のサラリーマンです。正月休みは故郷の真鍋島(まなべしま)にみんなで帰ろうとするのです。12月30日午前6時15分、道路が混み合う前に出発しようと、高速道路に乗ったのです。が、さっそく渋滞に巻き込まれてしまうのです。次の日の朝、もう混んではいないだろうと思い、気を取り直して出発するのです。が、今度は事故で大渋滞です。1月1日になるのです。『今度こそ真鍋島に帰れるぞ』と思ったら、息子大介が熱を出してしまうのです。もう里帰りを断念するつもりです。が、今度はUターンラッシュが始まり、結局郷の真鍋島へ行って彼らは短いながらも楽しい一時を過ごすのです。私は、笑いながら、イライラして見ていました。。。でも、考えてください。真の故郷を間違え、創り主に帰れない事は、イライラしてすまないし、笑い事ではないです。。。。。今日の聖書箇所では、無事に帰れると言っています。キリストが十字架上で「見捨てられる」事によって、私たちは、神に受け入れられ、郷に帰れるのです。

 

聖書の創世記では、私たちは、神に造られ、エデンの園でのびのびくらしていた、と書いてあります。神の愛とそれによる安心は、豊かにありました。しかし、私たち人間は、神の恵の支配下で不満でした。アダムとエバ、また私たち人間は、神に背を向き、離れてしまったのです。故郷を手放してしまったのです。その結果、病い、老いと死を体験するようになったのです。仕事場でフラストレーションを感じたことありませんか?家庭でへだたりを感じたことありませんか?人間の高慢で、この世界は、自然界を含めて、破壊されてしまっているのです。なぜでしょうか?罪が私たちの心に、世界に入ったからです。。。私達は、神に背を向ける、自己中心的な生き方を、今、認め悲しむ必要があるのです。神の引き寄せる愛を、今、体験する必要があるのです。

 

創り主は、どのようにして私たちを引き寄せるのでしょうか?。。。主イエスとその十字架を通してです。。。主は、普通の家ではなく、馬小屋で生まれました。大人になった時も、イエス様「には枕(まくら)する所もありません」でした。人に嫌われ、特に宗教家に除け者にされました。イエスは、都エルサレムので、一切の罪がないのに、犯罪人として十字架刑にされたのです。。。

 

今日の中心の聖句は、マタイ27:46「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」この言葉は、イエス様の最も大事な時に語られた言葉でした。この言葉は、神の最も大事な御性質と御心を表しています。私たちが最も理解しなければならない言葉と出来事です。。。私たちは、自分の罪のゆえに、神から引き離されるべきです。でも、主イエスは、十字架上で、代わりとなって引き離され、死なれたのです。それは、私たちを、帰るべき父なる神の家に連れ戻されるために、迎え入れるためです。

 

主イエスは、十字架上で、信じられないような痛みを体験し「見捨てられた」のです。体の苦痛は、考えられないようなものみでした。メル・ギブソンの映画「パッション」は、十字架刑を恐ろしく描いているのを覚えていませんか?「十字架刑の前に、むち打たれました。背中の皮がちぎれ、血にまみれて肉と骨は露出されました。大量出血で死亡するか、または失神する可能性があったのです。イエスは、ローマ兵にヒゲを抜かれ、とげのついた茨の冠が額を突き刺しました。十字架その物を処刑場まで運ばされました。100キロを軽く超える重い物だったそうです。長さ18センチ程の杭はウデに打ち込まれました。杭は神経の中央を突き通し、ウデと肩と首は激しく痛みました。十字架上で信じられないような負担が足と、ウデと、肩にかかり、関節は、はずれそうになりました。また、衰弱しはじめました。息を吐(は)きだしたり、深く息を吸い込むことも非常に困難になりました。息を吸い込むため、肺を膨張(ぼうちょう)させなければならないので、足を木に押し付け、体を延ばさなければなりませんでした。これは、何時間も続いたのです。。。足と肺の強烈な痛みと極度の苦痛で、呼吸することも困難となり、ついに窒息するのは普通でした。」。。でも、体の激しい痛みだけでは終わらないのです。

 

45節、自然界によっては「見捨てられた」のです。「暗くなって」とあります。主は、私たちの罪を背負っていたから、自然界にも、見捨てられたような感じでした。。。信じられないような精神的な苦痛を体験したのです。46節「大声で。。。叫ばれた」とあります。50節「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで」とあります。主は、苦しくて、苦しくて、悲鳴をあげていたのです。体の激しい痛みよりも、精神的な痛みの方がずっと苦しかったと思います。それは、次のこともあったからです。。。47−49、主は、人によって、「見捨てられ」、誤解され、馬鹿にされたのです。主は、すでに弟子たちに見捨てられていました。47節、49節「エリヤを呼んでいる」と完全に誤解されました。39節、道を行く人々、41節、宗教家、44節、十字架につけられた強盗が「ののしった」とあります。主は、彼らを創り、救いに来たのに、馬鹿にされていたのです。

 

父なる神に「見捨てられた」のです。これが最大の苦痛です。。。46節「わが神、わが神!」この言葉は、イエスの忠誠を表した信仰の叫びです。「私の二郎、私の愛子」とあまり日本では言わないと思います。が、欧米では、”My Johnny”とか”My Sally”と言うと、自分の家族、妻、子供のことだけを言っているのです。特別な関係にある親しさを表しています。深い愛の忠実さでした。苦しんでいるのに、文字通り『地獄』から、イエス様は「我が神、我が神」と忠誠を叫んでいたのです。「お父様、あなたを愛し続けます。」最後まで、主は、真実で、耐えない信仰と愛を父なる神に対して表していたのです。。。それなのに「見捨てられた」のです。私たちを獲得するために。

 

46節「どうしてわたしをお見捨てになったのですか?この叫びは、不思議でした。今までは、彼は、鞭打たれ、馬鹿にされ、釘打たれてきました。しかし、ずっと何も言わなかったのです。でも、突然「我が神、我が神」と叫んだのです。彼は、父なる神との断絶を体験していたのです。健康、仕事、お金を失うことは、耐え難いことですが、このように最愛を失うこと程酷いことはないのです。イエス様の天の父との関係は、30年、40年、50年足らずのものではないです。永遠の昔からあった関係です。一つだったのです。互いに完全に全く愛していたのです。で、御子は、父を失ったのです。一番近い友達に捨てられるよりも、何億倍も辛いのです。永遠の暗闇を体験したのです。何かがほぐれて、崩(くず)れ、壊(こわ)れたのです。地獄まで行ったのです。。。。。。

 

どうしてわたしをお見捨てになったのですか?どうしてイエス様は、自分を無視する、裏切り捨てる、馬鹿にする人たちのために、ここまでするのでしょうか?。。。神様に目的があったのです。神の意地悪やいたずらではないのです。主の十字架の苦しみに意義があると、ここで教えています。十字架の目的、結果、意義は何でしょうか?。。。確かに、十字架から、私たちの品性、世界の芸術、教会の慈善が流れ出るのです。でも、それより大事な目的があるのです。

 

51−53、私たちが神に近寄れるようにです。この箇所では、これが最大の意義です。主イエス・キリストの十字架の死によって、信じられない事が起こるのです。自然界が動揺するのです。51節「地が揺れ動き、岩が裂けた」のです。52節、死んでいた「聖徒たちの体が生き返った」のです。。。でも、最も素晴らしいことが起こるのです。イエス様が、死ぬと、51節「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」のです。。。イスラエルは、昔から、エルサレムの特別な神殿で、生ける神を礼拝していました。その真ん中に、最も神聖な聖所があったのです。誰も、入れないように幕があったのです。大祭司でも、年一回しか入れなかったのです。人と神様との間に壁があったのです。。。でも、その「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」のです。““どうして?”“ 誰でも、イエス様の十字架によって、神に近寄れるようにです。イエスとその十字架を信じ仰ぐことによって、聖なる聖なる神に直接祈れるのです。。。ユダヤ人だけではなく、差別なく、異邦人も、日本人も、アメリカ人も、韓国人も。あなたも、私も。男性も、女性も。子供も、大人も。社長も、オーエルも。実際、今、日の出る日本から世界に、賛美が広がっているのです。今日、イエス様を信じ仰ぐ世界中の人々、肌の黒い人も、茶色い人も、白い人も、神様に祈り讃えて行くのです。。。アメリカでは、人種差別が大きな問題です。白人警官が黒人の男性を殺害してしまったのです。あってはならないことです。特に教会で、互いに受け入れるべきです。。。私たちが行っている白金キリスト教会にもこないだインドネシア人、ミヤンマー人やアメリカ人、もちろん日本人も礼拝していました。イエス様の十字架のゆえに近寄れるのです。誰でも、ただ罪を悔い改め、イエスを信じ仰ぐことによって。十字架のもとで、平等で、一つで、皆神の愛の対象と成るのです。

 

主イエスは、私たちを真に愛していたから、この十字架の苦しみと断絶を忍んだのです。私たちは、しばしば、神に『見捨てられた』と精神的に思ってしまうのです。私は、小学校2年生の時に、親が私を東京の寮と学校に送り、見捨てられたような気持ちでした。でも、詩篇27:10「私の父、私の母が、私を見捨てるときは、主が私を取り上げてくださる。」今日の生ける神の御言葉によると、私たちがけして捨てられないために、イエスは、十字架上で実際捨てられたのです。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」主が捨てられていた時こそ、あなたを愛していたのです。失敗し、つまづく時も、あなたのそばに続けていてくださいます。

 

世界で最も優れたテーマは、身代わりとなる救世主ではないでしょうか?助ける人は、初め安全なところにいます。でも、誰かが危険なところにいます。危険にある人を助けるために、安全を捨て、危険に入るのです。そして、ある時は、最大の犠牲を払い、命を捧げます。命の危険にある人が安全に預かれるように。。。私は、忘れられません。ワシントンDCの近くのパトマック川でした。ジェット機が冬の川に墜落したのです。ある男性があの凍っていた冷たい冷たい川に何回も、何回も、飛び込んで、一人、二人、何にも、救い出しました。でも、助けているうちに、彼自身は、沈み帰らぬ人となりました。しかし、救われた方が帰れたのです。家族に帰り、郷に帰れたのです。犠牲によって。。。主イエス・キリストは、安全を捨て、危険に入りました。死に向かって行って、命を捧げたのです。危険にある人が安全に入り、死ぬはずの人が命を得るために。私たちに命を与えるために、主イエスは、命を捧げたのです。私たちが、父なる神の故郷に帰れるように、郷を捨て犠牲となったのです。。。。。私たちは、どうするのでしょうか?キリストの十字架の贖い償いを受け入れるのです。神に立ち帰り、ふところに飛び込むのです。そうです。主は、十字架上で見捨てられたのは、私たちが神に受け入れられるためです。