2021年2月24日水曜日

「情け深くあわれみ深い神」ヨナ書4章 


ヨナ4章を読んでください。

 

長引くコロナ禍で、自分の心が冷えていくのを感じます。マスクをし、人混み、握手、ハグを避け、ソシアルディスタンスを保たなければなりません。教会の交わりも薄いです。伝道は、今までのように出来ない面があるのです。で、良心が痛むのです。コロナであまりにも守りに入っていて自分が自己中心になっているのを感じます。皆さんは、どうでしょうか?人々の救いで心は燃えているでしょうか?私は、新たに燃えたいです。。。でも、恐れや、義務、自分の我からではなく、ヨナ書にあるように、神に素晴らしい愛によって伝道したいものです。

 

ヨナ1章。預言者ヨナに、神様からのお告げがありました。「ニネベへ行って、悔い改めを伝えなさい。」ところが、ヨナは、船に乗って、逆の方向に逃げてしまいました。。。2章。ヨナは3日3晩、魚のの中にいて、神様に「助けて!」と叫びました。「を救ってくださるのは、神様だけです。」そこで、魚は、ヨナを海岸に吐き出しました。。。3章.神様は、またヨナに命じました。「告しなさい。」で、ニネベの人々は、忠告を聞いて、悔い改めました。「それで、神は、彼らを滅ぼす計画を中した」のです。

 

子供のヨナの絵本を読むと、だいたい3章のハッピーエンドで終わります。『ニネベは、悔い改めた。一件落着。』。。しかし、ヨナ書は、終わっていないのです。ポイントは、4章にあるのです。ハッピーエンドではないでしょうが、伝道、宣教、教会開拓のために鋭い素晴らしい真実を宣べています。

 

1. ヨナ4:1−5、ヨナの心。私たちは、普通、大都市の悔い改めを目の当たりしたら、「非常に喜ぶ」でしょう。しかし、1節、大事な接続詞「ところが」があります。ヨナは「非常に不愉快」で、「怒った」とあります。また、「主に祈って言った。」全能の神に文句を付けるのです。。。ヨナの信仰告白によって分かりますが、彼は、神学的にしっかりしています。が、その神学を自分のものにすることはしません。彼は、2節、神の御性質を「知って」いたのです。「情け深くあわれみ深い神であり、怒るのにおそく、恵み豊かであり、わざわいを思い直される」神だと。しかし、彼の神学は、頭で終わり、心まで落ちてこなかったのです。。。ヨナの“頭でっかち”は、極端なものでした。死んでも、ニネベの助けを嫌いました。3節「私のいのちを取ってください。」神の予言者であっても、聖書の主なポイント『神の愛』を知っていても、ヨナは、かたくなに、神のお心、御心を自分のものにしないだけではなく、拒みました。。。さらに、ヨナは、5節、町の東のほうにすわり、小屋を作って、「何が起こるか」神の裁きを待っていました。神がニネベをすでに赦したのに。

 

私も、しばしば、神様を本当に知る事より、神様に関する知識や敬虔らしさを優先させてしまいます。神の教えを知りながらも、御霊によって、それを自分のものにしようとはしません。私は、神の愛よりも、人からの賞賛のほうを好みます。私の心は、鈍く、冷たく、硬くなってしまうのです。

 

私が尊敬しているステイーブン・チルダーズ先生がある神学校で教えていました。ある日、彼と一緒に教えていた同僚がそのクラスにいた多くのリーダー達が失望し、霊的に敗北しているように感じました。痛みを抱えているのを見て、チルダーズ先生をそばに呼びました。「クラスを3人ずつの小グループに分け、お互いに福音を伝え合うようにさせたらどうか?」と言いました。「何でそんなことを」とチルダーズ先生は思いました。「クラスの中に本当のクリスチャンではない人がいると思ったのだろうか。授業を中止してお互いの必要を分かちあい、祈りあうというのならわかるけど、お互いに伝道しあうなんて。」しかし、同僚が説明するにつれて、自分の考えがとても間違っていることに気づいたのです。。。痛い話しです。私たちは、クリスチャン生活を元気にして始まりますが、だんだんと、本当に霊的に変えられることが少なくなるのです。健全な教理を信じ、規律を守り続けても、心はあまり変っていないのです。神様との関係は冷えてしっているのです。また、人々の救いに燃えていなのです。どうしたら良いのでしょうか?

 

福音は、ノンクリスチャンだけに必要なもので、信じてクリスチャンになった後の生活には、あまり関係ないものと私たちは、考えてしまうのです。でも「福音は私が一度だけ通れば良い門ではなく、日々そこを歩いて行くべき道なの」です。常に神の心を学ばなければならないのです。

 

2.ヨナ4:6−11、神の心。神は、6節「とうごま」の木を教材にして、ヨナにご自身の『驚くばかりの恵み』を学ばせたのです。もちろん「ヨナはこのとうごまの木を非常に喜びました。」でも、7節、神は、一匹の虫によってとうごまの木を枯らせました。さらに、8節「神は焼けつくような東風を備え、太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え(おとろえ)果てた」とあります。「私は生きているより死んだほうがましだ」とヨナは先ほどと同じ文句を繰り返します。。。神は、神の予言者、また神の民を甘やかしません。愛をもって、訓練します。私も。あなたも。痛いですが。

 

神は、9節から、教材の意味を教えます。「あなたは、このとうごまの木を惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか?」。。。この「惜しむ」と言う言葉は、国語辞典によると、「愛」と言う言葉を使い「愛しむ」とも書けれるそうです。神を無視していた人、神の掟に従っていなかったニネベ人を神は、愛して、慈しんで、大切に思ったのです。神は、そこにいた弱者や、動物まで心にとめていました。

 

「惜しまないでいられようか?」これこそ神の福音です。神の恵みは、重なるような豊かな恵です。2節「(一)情け深く(二)あわれみ深い、()怒るのにおそく、(四)恵み豊かであり、()わざわいを思い直される。」。。1ヨハネ4:16の「神は愛なり」のように、神のエッセンス、本質は愛です。ヘセドの真実な愛です。。。天の父が御子を愛されるように、私たちを愛しているのです。ヨハネ17:23、27、主イエスは、父なる神にこう祈りました。あなたがわたしを愛されたように、彼らを愛し、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり。」

 

ヨナ4:2と同じような文書が旧約聖書で他に4回もあります。出エジプト記34:6−7「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す。」7節後半にこうあります。「罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎を子に、子の子に、三代に、4代に。」今の箇所のように旧約聖書は、神の愛と神の裁きの緊張、ジレンマを読みます。どう和解させるのでしょうか?十字架しかないです。キリストが罰せられることによって、私たちが救われるのです。民数記14:18「主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦す。」詩編86:15「主よ。あなたは、あわれみ深く、情け深い神。怒るのにおそく、恵みとまことに富んでおられる。」ヨエル2:13「主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かで、わざわいを思い直してくださる。」聖書全体に(新約聖書だけではなく、旧約聖書にも)神の愛と恵みが豊かに記されてあります。

 

福音を思い出してください。ローマ5:8「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」この十字架の愛の福音について瞑想し、味わい、喜ぶのです。そして、心が変わります。私たちがこの崇高な神の愛を体験し、変えられているなら、その愛を人々に示し、伝えることは当然ではないでしょうか?

 

ヨナ書は、ヨナが文句と神の教えで終わりました。ヨナは、後(あと)でどうなったのでしょうか?神の恵みは豊かにあったから、セカンドチャンスが与えられたのです。なぜそう言えるのでしょうか?ヨナ書は、彼自身の罪の告白書でもあるからです。回復の恵みがったから、告白できたのです。。。私たちも、そうです。私をはじめ、私たちは、無関心の罪を悔い改め、告白するセカンド・チャンスがあるのです。。。私の鈍い、硬い、冷えている心に、小畑進先生が言ったように、新たに「神の愛に感動する」のです。贖いの愛を思い出し、心が燃え、滅びていく人々を「惜しまないでいられようか?」

 

スチーブン・チルダーズ先生は、こう書きました。「日光を浴びている石は、暖かくならざるを得ないと言う格言があります。同様に、私たちが、私たちの石のようにかたくなな心を福音の暖かさと光にさらすことを学ぶとき、私たちは変えられていかざるを得ません。私たちの悩みや恐れが何であろうと、私たちの心が神様の声で繰り返しこの永遠の真実を聞くことにより励まされ、強められ、変えられていくために、私たちはこの福音を私たち自身と周りの人々に、常に述べ伝えていかなければなりません。」


ジャック・ミラ牧師は、こう言いました。「毎日自分に福音を伝えなさい。」教会の礼拝で、いや常に、御霊によって、私の冷えた心を十字架の愛で燃やし、主イエスを崇め伝えたいものです。


2021年2月12日金曜日

何よりも先ず祈る人々


 「神を知っている人々は、何よりも先ず祈る人々であります。。。(でも)われわれがどれほど神を知らないかを認めなくてはなりません。われわれは自分自身を評価する方法を学ばなければなりませんが、それはわれわれがどれほど神について知っているかとか、われわれがどんな賜物を与えられ、教会においてどんな奉仕をしているかによってではなく、われわれがどのように祈り、そして、われわれの心にどのようなことが起こるかということによって評価されなければなりません。われわれの中の多くの方が、この点について、いかに貧困であるかということについて、まったく知らないのではないがと思います。わらわれは主に祈って、このことについて示していただこうではありませんか。」

ジェームズ・パッカー


2021年2月3日水曜日

『新天新地』 ヨハネの黙示録21:1−7


ヨハネの黙示録21:1−7を先ず読んでください。

  あのイギリスの名作家CSルイスは、こう書いています。私たちがもしもこの世界にあって満足できない自分を発見するなら、他の世界のために造られたのでないかと考えなければならない。。。何かが変なのです。私たちは、この世界に実はフィットしてないいのです。。。聖アウグスティヌスは、こう書いています。「神よ、あなたは私たちを、ご自身のためにお造りに成りました。私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」

 

「はじめに神は、天と地を創造された」と創世記1:1にあります。創り主は、素晴らしい宇宙、地球を創りました。交わりを持てるように人間を神ご自身の形に創りました。人間は、神ご自身を自分の拠り所・故郷として安らぎ楽しんでいました。そこで、創世記2章、神は、人をエデンの園、地上の故郷に入れ、全ては、とても良かったのです。でも、創世記3章、人は、神様の言葉を信じ従うよりも、サタンの言葉を聞き入れました。その時、全てが変わりました。神との深い交わりが閉ざされ、故郷である園から追放されました。人間の罪の結果である、死、病い、飢餓、戦争などが広がって行きました。今は、コロナヴィルスの脅威に侵されています。カインは、創世記4章、自分の弟まで殺し、放浪者となったのです。人類は、皆、放浪者となったのです。ルカ15章、勝手な生き方をしていても、真面目な生き方をしていても、実は、人の心は、神から遠いのです。。。でも、生ける愛の神は、素晴らしいです。全ての人に、御子イエスを通して、声をかけているのです。救い主イエス・キリストは、自ら天の郷を捨て、私たちの間に住んだのです。十字架上で、こう叫びました。「わが神、わが神。どうして私を見捨てたのですか?」主イエスは、私たちの代わりに、父なる神に見捨てられることによって、私たちを迎え入れ、回復したのです。私たちは、ただ主イエスを信じ仰ぐことによって、真の郷である創り主に帰れるのです。主イエスは『全てを回復する』と復活を通して宣言しました。キリストの再臨の時、この世界をエデンの園以上の故郷として回復されるのです。。。。。『自分やこの世界は、何か変だ』と思うあなたは、生ける神を、素晴らしい故郷『新天新地』を待ち望めるのです。。。でも、この故郷は、どのような所でしょうか?

 

1.1節前半、5節、私たちが待ち望んでいる故郷は、全く「新しい」ものです。この「新しい」という言葉は、4回も出て来ます。1節「新しい天と新しい地」、2節「新しいエルサレム」、5節「すべてを新しくする」。質(その輝き、美しさ、力、鮮明さ)のことを言っているのです。。。私の故郷長野のアルプスの山々を見ると、素晴らしいです。でも、新天新地は、よりより素晴らしいです。子供がクレヨンで上高地を書いたとしましょう。それを本物の上高地と比較できるでしょうか?可愛いですが、比べ物になれません。今の世界は、新天新地と、比べ物にはならないのです。。。私たちの体でさえ真新しくなるのです。私たちの体は、今5感覚を使いますが、新天新地では100感覚、1000感覚でしょうか?。。。。。今は、コロナヴィルスに悩まされていますが、希望があるのです。全てが真新しくされる時が必ず来るのです。

 

2.1節後半、4節、私たちが待ち望んでいる故郷には、「以前のもの」は全くないのです。1節後半「以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」えー?「海」?海は、当時、悪の象徴でした。昔の人にとって海は、あまりにも怖いところでした。黙示録を書いたヨハネは、エーゲ海の孤島パトモスに流され、波は、荒れて狂い出す時もあったのです。海さえなければどこまでも歩いて行けるのです。しかし、いずれ、その日には、そんな「海」は無くなるのです。悪は、全てなくなるのです。コロナも。

4節「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」強調して、徹底的に言われているのです。「もう2度と涙しなくてもよいように、涙の本となる『死』も『悲しみ』も『叫び』も『苦しみ』も、一切をとりのけてくださるというのです。」「新天新地」は、そのような故郷なのです。。。創り主の親しい愛が見えます。神ご自身が彼らの「涙をすっかりぬぐい取ってくださる」のです。優しいお母さんが子供の涙を拭き去るように。「とても苦しかったね。絶対悲しくさびしかったでしょう。よく耐えたね。えらかった。さあ、わたしが拭いて上げるから。」。。今は、コロナヴィルスに苦しい思いをしますが、希望はあるのです。コロナには、必ず終わりが来るのです。大丈夫です。将来の希望があるから、今喜びをもって忍耐できるのです。

3.2節、私たちが待ち望んでいる故郷は、キリストの教会に与えられるのです。2節「聖なる都、新しいエルサレム」は「夫のために飾られた花嫁のように整えられ」た教会の事です。天国に召された小畑進牧師は、この「新しいエルサレム」のことをこう言っています。「この都こそ、教会のヒナ型であり、教会はひたすら『神より』出て、『天より』のものであったことが示されるのでもありました。」。。キリストの教会は、美しくされるのです。「花嫁のように」とあります。キリスト者は、シンデレラのようです。灰で真っ黒になっていたシンデレラは、王子に出会って、美しいシンデレラ姫と変えられたのです。彼女は、素晴らしいウェディングドレスを着て、最高の幸せに入ったのです。。。結婚式の前に、花嫁衣裳を着つけて、鏡に立ったときの花嫁の声は、こうではないでしょうか?「あ―れえ?これ私!」私たち、キリスト者も、そうです。罪の中にいた者が、美しい主の「花嫁」となったのです。このような私たちが新天新地に預かれるのです。。。期待しましょう。

 

4.3節、6節前半、私たちが待ち望んでいる故郷は、生ける神が豊かに臨在するところです。三回かさねて書いてあります。「神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて。」地上の故郷の新天新地以上に、神様ご自身が真の故郷なのです。。。「幕屋」は、神の臨在を意味しています。昔、神殿が建てられる前、荒野をさまようイスラエルの民の間に、幕屋が建てられ、神がそこに特別にいたのです。後、イエス様が体を持って来た時、私たちの間に住まわれた「幕屋」だったのです。終わりの時には、この箇所のように、神は完全な栄光のうちに現れ、人々の中に宿るのです。私たちの故郷の「新天新地」に、更に真の故郷である神ご自身に、確かに豊かに住むのです。。。神の愛を実感します。小畑進牧師はこう言っています。「これこそ、エデンの再現よ、という人がいます。たしかに、あのエデンでは、アダムは神と言葉をかわしていました。でも、でも、それは不安定でした。壊(こわ)れる状態でした。しかし、ここはや恒久不変な(こうきゅうふへんな:いつまでも変わらない)のです。神は私たちと住み込まれてしまうのです。」。。私たちは、今でも、神の臨在を実感する時があります。けれども、将来、私たちは、神と共にいわゆる「住み込む」のです。これほど豊かで、私たちを潤すことはないのです。その時、神をもう見失おうにも見失うことができないのです。栄光の恵み深い神と面と向かって住む希望が待っているのです!

 

5.5節後半、6節前半、私たちが待ち望んでいる故郷は、本当にある所です。『話しは良すぎる』とある方は思うでしょう。夢か!?と思うでしょう。だって、当時、ヨハネは、島流しされていたし、教会は、迫害にあっていたのです。今でも、新天新地は「現実離れ、科学的ではない」と言ってしまうのです。。。コロナもあるし。。。でも、重ねてこう言っています。5節後半「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である」のです。夢でも、妄想でもないのです。新しい体ですが、私たちは、本物の肉の体で新天新地に住むのです。6節前半、もうすでに、起こったかのように「事は成就した」と言っているのです。。。また、生ける神は「アルファであり、オメガである。最初であり、最後である」のです。聖書の神は、事を始めて、事を全うする真実な神です。神は、最後までこれを見届けるのです。。。人間の改革は、いつも中途半端で、時が経てば、汚れて、腐って行きます。アメリカの政治、共和党も、民主党も、見てください。新大陸のアメリカも古び、病める世界となりました。明治維新もそうです。昔の宗教改革者も、こう言っています。「改革された教会は、また常に改革されて行かなければならい。」でも、本当に実現する新世界は、決して古びることはないと、主は保証しているのです。。。人間は、ものごとを始めます。が、最後まで見届けません。画家のアトリエには、描きかけたままで捨てられているカンバスがホコリをかぶっています。けれども、神のアトリエでは、全てが完成しているのです。現在は、神の救いの計画は、途中であって、私たちから見て、チグハグに見え、何の意味もないような、理解しにくい点や線だけであるかようです。でも、完成すると、神の救いの計画の全体像が見え、私たちは、驚き、感動する時が来ます。今でも、感動し始めます。期待しましょう。

 

6.6節後半、7節、私たちが待ち望んでいる故郷は、「乾く者」と「勝利する者」に与えられるのです。6節後半、「乾く者」。山の峠(とうげ)の茶屋の風景のようです。私たちは、よく軽井沢にリフレッシュしに行きました。これは、軽井沢の宿の手前にある昔の茶屋のようです。長い旅をし、江戸から中山道を歩いて、喉渇いた旅人がいます。年老いたおばあちゃんからお茶と団子をふるまってもらうのです。天と地を創った方が、その釘の跡の手で、私たちをもてなし、喉を潤して下さるのです。それもまた「価なしに。」一銭も払わないで。主イエスが全て支払ってくださったからです。。。「そうです。わたしは、不十分で、罪深い汚い者です。でも、私は、渇きます。渇きます。主イエスよ、私は、あなたを必要としています。」贖いによって、恵みによって、新天新地に入れて下さるのです。。。そして、7節、「乾いた者」が「勝利する者」となるのです。私は、高校生の頃、何回も、レスリング大会で、審判によって手を高く挙げられました。トロフィーも、もらいました。ただ恵みによって生かされ、信じ続ける私たちの手を上げ、主は勝利者であることを述べて下さるのです。。。さらに、神の感動が伝わってきます。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの子となる!」私たちを子とする、親となった主の感動です。。。。。飢え渇く者の幸いです。勝利する者の希望です。

 

8節、火と硫黄との燃える池。… 第二の死」とあります。。。使徒信条にこうあります。「生きている者と死んでいる者とを審(さば)かれる。」神は、確かに聖い正しいお方です。でも、同じ使徒信条にこうあります。主は「陰府(よみ)にくだった。」不思議に、主イエスは、死なれた時に火と硫黄との燃える池」まで下って下さったのです。ここに神の聖さと愛の調和があるのです。。。いつでも、今のコロナ禍の中であっても、こう思えるのです。『私が永遠の郷、新天新地に預かれるように、主は、天の郷を離れ、十字架上で私たちの代わりと成って罰を受け、地獄まで行って下さったのです。私が郷に神に帰れるように、新天新地の恵みに預かれるように、安らげるように。私たちが永遠の希望を味わえるように、主イエスは、十字架上で深い失望を体験して下さったのです。でも、また復活し、新天新地を用意してくださっているのです。』。。コロナ禍にあっても、素晴らしいものが待っているのです。期待しましょう。また、今、安心し、仕えましょう。


2021年2月1日月曜日

むしろ進んで探しに出かける


罪人のこととなると神は黙って立ち、腕を広げて『こちらえきなさい』と言うのではない。いや、いなくなった息子を持つ父親のように、神はそこに立っているが、むしろ進んで探しに出かける。いなくなった羊を探す羊飼いのように。なくなった硬貨を探す女のように。神は出て行くーしかし、違う、神は出かけてしまわれた。だが、どんな羊飼いやどんな女よりも果てしなく遠くいかれた。神は、神であることから人間になるほど、真実果てしなく長い距離を行き、そのようにして罪人たちを探しに出かけられたのだ。」ゼーレン・キュレケゴール


「人の子<イエス・キリスト>は、失われた人を捜して救うために来たのです。」聖書・ルカ19:10