2021年2月3日水曜日

『新天新地』 ヨハネの黙示録21:1−7


ヨハネの黙示録21:1−7を先ず読んでください。

  あのイギリスの名作家CSルイスは、こう書いています。私たちがもしもこの世界にあって満足できない自分を発見するなら、他の世界のために造られたのでないかと考えなければならない。。。何かが変なのです。私たちは、この世界に実はフィットしてないいのです。。。聖アウグスティヌスは、こう書いています。「神よ、あなたは私たちを、ご自身のためにお造りに成りました。私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」

 

「はじめに神は、天と地を創造された」と創世記1:1にあります。創り主は、素晴らしい宇宙、地球を創りました。交わりを持てるように人間を神ご自身の形に創りました。人間は、神ご自身を自分の拠り所・故郷として安らぎ楽しんでいました。そこで、創世記2章、神は、人をエデンの園、地上の故郷に入れ、全ては、とても良かったのです。でも、創世記3章、人は、神様の言葉を信じ従うよりも、サタンの言葉を聞き入れました。その時、全てが変わりました。神との深い交わりが閉ざされ、故郷である園から追放されました。人間の罪の結果である、死、病い、飢餓、戦争などが広がって行きました。今は、コロナヴィルスの脅威に侵されています。カインは、創世記4章、自分の弟まで殺し、放浪者となったのです。人類は、皆、放浪者となったのです。ルカ15章、勝手な生き方をしていても、真面目な生き方をしていても、実は、人の心は、神から遠いのです。。。でも、生ける愛の神は、素晴らしいです。全ての人に、御子イエスを通して、声をかけているのです。救い主イエス・キリストは、自ら天の郷を捨て、私たちの間に住んだのです。十字架上で、こう叫びました。「わが神、わが神。どうして私を見捨てたのですか?」主イエスは、私たちの代わりに、父なる神に見捨てられることによって、私たちを迎え入れ、回復したのです。私たちは、ただ主イエスを信じ仰ぐことによって、真の郷である創り主に帰れるのです。主イエスは『全てを回復する』と復活を通して宣言しました。キリストの再臨の時、この世界をエデンの園以上の故郷として回復されるのです。。。。。『自分やこの世界は、何か変だ』と思うあなたは、生ける神を、素晴らしい故郷『新天新地』を待ち望めるのです。。。でも、この故郷は、どのような所でしょうか?

 

1.1節前半、5節、私たちが待ち望んでいる故郷は、全く「新しい」ものです。この「新しい」という言葉は、4回も出て来ます。1節「新しい天と新しい地」、2節「新しいエルサレム」、5節「すべてを新しくする」。質(その輝き、美しさ、力、鮮明さ)のことを言っているのです。。。私の故郷長野のアルプスの山々を見ると、素晴らしいです。でも、新天新地は、よりより素晴らしいです。子供がクレヨンで上高地を書いたとしましょう。それを本物の上高地と比較できるでしょうか?可愛いですが、比べ物になれません。今の世界は、新天新地と、比べ物にはならないのです。。。私たちの体でさえ真新しくなるのです。私たちの体は、今5感覚を使いますが、新天新地では100感覚、1000感覚でしょうか?。。。。。今は、コロナヴィルスに悩まされていますが、希望があるのです。全てが真新しくされる時が必ず来るのです。

 

2.1節後半、4節、私たちが待ち望んでいる故郷には、「以前のもの」は全くないのです。1節後半「以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」えー?「海」?海は、当時、悪の象徴でした。昔の人にとって海は、あまりにも怖いところでした。黙示録を書いたヨハネは、エーゲ海の孤島パトモスに流され、波は、荒れて狂い出す時もあったのです。海さえなければどこまでも歩いて行けるのです。しかし、いずれ、その日には、そんな「海」は無くなるのです。悪は、全てなくなるのです。コロナも。

4節「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」強調して、徹底的に言われているのです。「もう2度と涙しなくてもよいように、涙の本となる『死』も『悲しみ』も『叫び』も『苦しみ』も、一切をとりのけてくださるというのです。」「新天新地」は、そのような故郷なのです。。。創り主の親しい愛が見えます。神ご自身が彼らの「涙をすっかりぬぐい取ってくださる」のです。優しいお母さんが子供の涙を拭き去るように。「とても苦しかったね。絶対悲しくさびしかったでしょう。よく耐えたね。えらかった。さあ、わたしが拭いて上げるから。」。。今は、コロナヴィルスに苦しい思いをしますが、希望はあるのです。コロナには、必ず終わりが来るのです。大丈夫です。将来の希望があるから、今喜びをもって忍耐できるのです。

3.2節、私たちが待ち望んでいる故郷は、キリストの教会に与えられるのです。2節「聖なる都、新しいエルサレム」は「夫のために飾られた花嫁のように整えられ」た教会の事です。天国に召された小畑進牧師は、この「新しいエルサレム」のことをこう言っています。「この都こそ、教会のヒナ型であり、教会はひたすら『神より』出て、『天より』のものであったことが示されるのでもありました。」。。キリストの教会は、美しくされるのです。「花嫁のように」とあります。キリスト者は、シンデレラのようです。灰で真っ黒になっていたシンデレラは、王子に出会って、美しいシンデレラ姫と変えられたのです。彼女は、素晴らしいウェディングドレスを着て、最高の幸せに入ったのです。。。結婚式の前に、花嫁衣裳を着つけて、鏡に立ったときの花嫁の声は、こうではないでしょうか?「あ―れえ?これ私!」私たち、キリスト者も、そうです。罪の中にいた者が、美しい主の「花嫁」となったのです。このような私たちが新天新地に預かれるのです。。。期待しましょう。

 

4.3節、6節前半、私たちが待ち望んでいる故郷は、生ける神が豊かに臨在するところです。三回かさねて書いてあります。「神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて。」地上の故郷の新天新地以上に、神様ご自身が真の故郷なのです。。。「幕屋」は、神の臨在を意味しています。昔、神殿が建てられる前、荒野をさまようイスラエルの民の間に、幕屋が建てられ、神がそこに特別にいたのです。後、イエス様が体を持って来た時、私たちの間に住まわれた「幕屋」だったのです。終わりの時には、この箇所のように、神は完全な栄光のうちに現れ、人々の中に宿るのです。私たちの故郷の「新天新地」に、更に真の故郷である神ご自身に、確かに豊かに住むのです。。。神の愛を実感します。小畑進牧師はこう言っています。「これこそ、エデンの再現よ、という人がいます。たしかに、あのエデンでは、アダムは神と言葉をかわしていました。でも、でも、それは不安定でした。壊(こわ)れる状態でした。しかし、ここはや恒久不変な(こうきゅうふへんな:いつまでも変わらない)のです。神は私たちと住み込まれてしまうのです。」。。私たちは、今でも、神の臨在を実感する時があります。けれども、将来、私たちは、神と共にいわゆる「住み込む」のです。これほど豊かで、私たちを潤すことはないのです。その時、神をもう見失おうにも見失うことができないのです。栄光の恵み深い神と面と向かって住む希望が待っているのです!

 

5.5節後半、6節前半、私たちが待ち望んでいる故郷は、本当にある所です。『話しは良すぎる』とある方は思うでしょう。夢か!?と思うでしょう。だって、当時、ヨハネは、島流しされていたし、教会は、迫害にあっていたのです。今でも、新天新地は「現実離れ、科学的ではない」と言ってしまうのです。。。コロナもあるし。。。でも、重ねてこう言っています。5節後半「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である」のです。夢でも、妄想でもないのです。新しい体ですが、私たちは、本物の肉の体で新天新地に住むのです。6節前半、もうすでに、起こったかのように「事は成就した」と言っているのです。。。また、生ける神は「アルファであり、オメガである。最初であり、最後である」のです。聖書の神は、事を始めて、事を全うする真実な神です。神は、最後までこれを見届けるのです。。。人間の改革は、いつも中途半端で、時が経てば、汚れて、腐って行きます。アメリカの政治、共和党も、民主党も、見てください。新大陸のアメリカも古び、病める世界となりました。明治維新もそうです。昔の宗教改革者も、こう言っています。「改革された教会は、また常に改革されて行かなければならい。」でも、本当に実現する新世界は、決して古びることはないと、主は保証しているのです。。。人間は、ものごとを始めます。が、最後まで見届けません。画家のアトリエには、描きかけたままで捨てられているカンバスがホコリをかぶっています。けれども、神のアトリエでは、全てが完成しているのです。現在は、神の救いの計画は、途中であって、私たちから見て、チグハグに見え、何の意味もないような、理解しにくい点や線だけであるかようです。でも、完成すると、神の救いの計画の全体像が見え、私たちは、驚き、感動する時が来ます。今でも、感動し始めます。期待しましょう。

 

6.6節後半、7節、私たちが待ち望んでいる故郷は、「乾く者」と「勝利する者」に与えられるのです。6節後半、「乾く者」。山の峠(とうげ)の茶屋の風景のようです。私たちは、よく軽井沢にリフレッシュしに行きました。これは、軽井沢の宿の手前にある昔の茶屋のようです。長い旅をし、江戸から中山道を歩いて、喉渇いた旅人がいます。年老いたおばあちゃんからお茶と団子をふるまってもらうのです。天と地を創った方が、その釘の跡の手で、私たちをもてなし、喉を潤して下さるのです。それもまた「価なしに。」一銭も払わないで。主イエスが全て支払ってくださったからです。。。「そうです。わたしは、不十分で、罪深い汚い者です。でも、私は、渇きます。渇きます。主イエスよ、私は、あなたを必要としています。」贖いによって、恵みによって、新天新地に入れて下さるのです。。。そして、7節、「乾いた者」が「勝利する者」となるのです。私は、高校生の頃、何回も、レスリング大会で、審判によって手を高く挙げられました。トロフィーも、もらいました。ただ恵みによって生かされ、信じ続ける私たちの手を上げ、主は勝利者であることを述べて下さるのです。。。さらに、神の感動が伝わってきます。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの子となる!」私たちを子とする、親となった主の感動です。。。。。飢え渇く者の幸いです。勝利する者の希望です。

 

8節、火と硫黄との燃える池。… 第二の死」とあります。。。使徒信条にこうあります。「生きている者と死んでいる者とを審(さば)かれる。」神は、確かに聖い正しいお方です。でも、同じ使徒信条にこうあります。主は「陰府(よみ)にくだった。」不思議に、主イエスは、死なれた時に火と硫黄との燃える池」まで下って下さったのです。ここに神の聖さと愛の調和があるのです。。。いつでも、今のコロナ禍の中であっても、こう思えるのです。『私が永遠の郷、新天新地に預かれるように、主は、天の郷を離れ、十字架上で私たちの代わりと成って罰を受け、地獄まで行って下さったのです。私が郷に神に帰れるように、新天新地の恵みに預かれるように、安らげるように。私たちが永遠の希望を味わえるように、主イエスは、十字架上で深い失望を体験して下さったのです。でも、また復活し、新天新地を用意してくださっているのです。』。。コロナ禍にあっても、素晴らしいものが待っているのです。期待しましょう。また、今、安心し、仕えましょう。


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