2020年9月16日水曜日

「聖なる聖なる」


「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」マルコ10:43〜45


天国に着いた時、そこで何よりも強く願うことは何だと思いますか?

八万人の男性がヒントをくれました。


そのとき私は、デトロイトにある巨大なスタジアム、シルバードームでクリスチャン男性の集会に参加していました。会場は満席で、講師の話が終わると賛美チームが登場し、彼らのリードで私たちは「聖なる聖なる」という賛美歌を歌い始めました。


初めは静かに繰り返されていたのが、だんだん大きな声になりました。一通り歌い終えると、また初めから、今度はさらに大きな声で歌い始めるのでした。最後には、グラウンドから客席の最上列まで、スタジアム全体が賛美のこえで揺れているかのようでした。
    
    聖なる 聖なる 聖なる主よ
    夜ごと、朝ごとに ほめたたえん。
    三つにいまして ひとりなる
    主こそ力に 満ちあふる。

ひざまずいて歌いました。手を思い切り高くあげて歌いました。頭を後ろにそらせ、声の限りを尽くして歌いました。時間の感覚がすべてなくなり、指先が天の端に届くかと思えるまで、賛美はいつまでも続きました。スタジアムの屋根が吹き飛ぶのではないかと思うほどの音量に達したとき、神に対する雷のような喝采がアリーナから一斉にわき上がりました。

その美しいとどろきは、私には天国そのものに思えました。

主を礼拝することが、こんなにも魂の奥に届いたことはありません。にもかかわらず、賛美の表現が深くなればなるほど、もっと何かをしたい思いに駆られました。途中で友人の方を振り向き、叫びました。「もっと深く礼拝したい、でも、どこにいったらいいのかわからない!」
その後何年もたってなお、賛美で一つにつながれた男性たちの歌声は記憶の中でこだましています。その日、心のなかで感じたことも覚えています。 無数の天の万軍と共に、神のただなかで礼拝するときは、それを何百倍も強く感じることでしょう。それゆえ私は、天国では何か、焦燥感に近いものを感じるのではないかと思うのです。


焦燥感という言葉は意外でしたか?


あなたや私が共に神の前に立つとき、神がどのようなお方であるかをはっきりと見て、私たちを誕生から「その日」へ導くためになしてくださった力ある御業のすべてを知るようになります。そのとき私たちは、喜びに溢れ、天国のスタジアムの屋根を精一杯揺るがしながら、感謝と賛美を神に惜しみなく捧げることでしょう。


しかし私はそれと同じくらい確信があるのです。そのときには、もっと何かをしたいと、歯がゆいまでに切望するだろうと。


シルバードームでの体験に加え、イエスのことばと教えは、わたしに次のような確信をもたらしました。それは、天国で私たちは仕えることを切実に願う、ということです。


救い主にお会いするとき、私たちはイエスに愛をもって応えたいという、燃えたぎるような、永遠に続く思いに圧倒されることでしょう。礼拝や賛美だけでは足りません。イエスのために何かしたいと思うのです。


考えてみてください。心の底から誰かを愛するとき、ことばはもちろん素晴らしいし尊いものですが、ことばだけでなく、行動を通して思いを伝えたいと強く感じるのではないでしょうか。与えたい、手伝いたい、守りたい、仕えたい、そう切望するのです。


ことばだけで不十分なのは神にとっても同じでした。神は世界のすべての人を愛したがゆえに、劇的なことをなさいました。私たちを救うために御子をお与えになったのです(ヨハネ3:16)。またイエスも、愛の最も偉大な表現とは、ある行動をとること、すなわち「友のためにいのちを捨てる」ことだと言われました(ヨハネ15:13)。


天国でどれだけ主に仕えさせていただけるかは、地上でのいのちを神のためにどう過ごすかと密接な関係があります。  


ブルース-ウィルキンソン


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