When I feel the serpent at my heel
may I remember him whose heal was bruised,
but who, when bruised, broke the devil's head.
My soul with inward joy extols the might conqueror.
The Valley of Vision
When I feel the serpent at my heel
may I remember him whose heal was bruised,
but who, when bruised, broke the devil's head.
My soul with inward joy extols the might conqueror.
The Valley of Vision
天国に着いた時、そこで何よりも強く願うことは何だと思いますか?
八万人の男性がヒントをくれました。
そのとき私は、デトロイトにある巨大なスタジアム、シルバードームでクリスチャン男性の集会に参加していました。会場は満席で、講師の話が終わると賛美チームが登場し、彼らのリードで私たちは「聖なる聖なる」という賛美歌を歌い始めました。
初めは静かに繰り返されていたのが、だんだん大きな声になりました。一通り歌い終えると、また初めから、今度はさらに大きな声で歌い始めるのでした。最後には、グラウンドから客席の最上列まで、スタジアム全体が賛美のこえで揺れているかのようでした。
聖なる 聖なる 聖なる主よ
夜ごと、朝ごとに ほめたたえん。
三つにいまして ひとりなる
主こそ力に 満ちあふる。
ひざまずいて歌いました。手を思い切り高くあげて歌いました。頭を後ろにそらせ、声の限りを尽くして歌いました。時間の感覚がすべてなくなり、指先が天の端に届くかと思えるまで、賛美はいつまでも続きました。スタジアムの屋根が吹き飛ぶのではないかと思うほどの音量に達したとき、神に対する雷のような喝采がアリーナから一斉にわき上がりました。
その美しいとどろきは、私には天国そのものに思えました。
主を礼拝することが、こんなにも魂の奥に届いたことはありません。にもかかわらず、賛美の表現が深くなればなるほど、もっと何かをしたい思いに駆られました。途中で友人の方を振り向き、叫びました。「もっと深く礼拝したい、でも、どこにいったらいいのかわからない!」
その後何年もたってなお、賛美で一つにつながれた男性たちの歌声は記憶の中でこだましています。その日、心のなかで感じたことも覚えています。 無数の天の万軍と共に、神のただなかで礼拝するときは、それを何百倍も強く感じることでしょう。それゆえ私は、天国では何か、焦燥感に近いものを感じるのではないかと思うのです。
焦燥感という言葉は意外でしたか?
あなたや私が共に神の前に立つとき、神がどのようなお方であるかをはっきりと見て、私たちを誕生から「その日」へ導くためになしてくださった力ある御業のすべてを知るようになります。そのとき私たちは、喜びに溢れ、天国のスタジアムの屋根を精一杯揺るがしながら、感謝と賛美を神に惜しみなく捧げることでしょう。
しかし私はそれと同じくらい確信があるのです。そのときには、もっと何かをしたいと、歯がゆいまでに切望するだろうと。
シルバードームでの体験に加え、イエスのことばと教えは、わたしに次のような確信をもたらしました。それは、天国で私たちは仕えることを切実に願う、ということです。
救い主にお会いするとき、私たちはイエスに愛をもって応えたいという、燃えたぎるような、永遠に続く思いに圧倒されることでしょう。礼拝や賛美だけでは足りません。イエスのために何かしたいと思うのです。
考えてみてください。心の底から誰かを愛するとき、ことばはもちろん素晴らしいし尊いものですが、ことばだけでなく、行動を通して思いを伝えたいと強く感じるのではないでしょうか。与えたい、手伝いたい、守りたい、仕えたい、そう切望するのです。
ことばだけで不十分なのは神にとっても同じでした。神は世界のすべての人を愛したがゆえに、劇的なことをなさいました。私たちを救うために御子をお与えになったのです(ヨハネ3:16)。またイエスも、愛の最も偉大な表現とは、ある行動をとること、すなわち「友のためにいのちを捨てる」ことだと言われました(ヨハネ15:13)。
天国でどれだけ主に仕えさせていただけるかは、地上でのいのちを神のためにどう過ごすかと密接な関係があります。
ブルース-ウィルキンソン
「罪人のこととなると神は黙って立ち、腕を広げて『こちらへ来なさい』というのではない。いや、いなくなった息子を待つ父親のように、神はそこに立って待っているが、むしろ進んで捜しに出かけられる。いなくなった羊を捜す羊飼いのように。亡くなった銀貨を捜す女のように。神は出て行くーーしかし違う、神は出かけてしまわれた。だが、どんな羊飼いやどんな女よりも果てしなく遠くまで行かれた。神は、神であることから人間になるほど、真実果てしなく遠い距離を行き、そのようにして罪人たちを捜しに出かけられたのだ。」セーレン・キェルケゴール
聖書・ヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠の命を持つためである。」
聖書のルカ15:11−32を読んで下さい。
私は、小学校の2年生の頃から、東京の寮に住み、アメリカンスクールに行っていました。正直言って、結構辛かったです。でも、はっきり覚えている事は、故郷の松本に帰ったら、親は、大喜びで迎えてくれたことでした。私たちは、秋に1週間、クリスマスに2週間、春に1週間、夏に3ヶ月近く郷の松本に帰れたのです。金曜日の晩、アズサに乗って、帰って来たのです。クリスマスの頃は、山梨県から長野県に入った八ヶ岳のあたりで『雪があるかな?雪があるかな?』と窓をのぞいて、山をじっと見ていました。親は、金曜日の英語などで忙しかったから、松本駅から、タクシーに乗って、松本聖書福音教会まで行きました。そして、入ったら「ジャン、デーブ、デン、お帰り!」お袋が私たちのお気に入りの食事ばかり作ってくれました。すき焼き、ジンゲスカン、ストロガノフ。クリスマスは、最高でした!1年中貯金して、家族皆で、白馬などで何泊もして、スキーしました。親と離れるのは、辛かったです。が、郷に帰るのは最高でした。帰る時、親の愛がいっぱいあったのです。。。。。。。なら、どうでしょうか?なおさら、生ける神の愛はそれ以上ではないでしょうか?
1。愛の必要性:放浪する息子たち。ルカ15:11「またこう話された。『ある人に息子がふたりあった。』」「ふたり」です。放浪する息子は、弟のいわゆる「放蕩」息子だけではなく、後に出てくる兄も、放浪していたのです。。。心の放浪です。
12―19、弟の放浪。弟の方は、まっこうから、見えるような形で放蕩したのです。12節、弟は、父親に「財産を全てくれ」と言ったら、父親は、分けてやったのです。13節、普通財産をもらう時は、父親が死んだ後です。弟は、父親に「死ね!」と思っているのです。。。数日たって、弟は、「何もかもまとめて遠い国に旅立った」のです。放浪、いや「放蕩」の始まりです。13節後半「そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。」14節「何もかも使い果たした。」
快楽主義でしょうか?このようにして、放浪し、放蕩する人はいます。「神なんかいないし、いらない。聖書の掟なんか関係ない。好きなように生きる。」自己中心的な快楽によって、神から出来るだけ遠く離れていたいのです。キリスト教を信じると、楽しみが無くなると思うのです。何にも要求もされたくないのです。教会には、行きなくないし、聖書は、読み学びたくないのです。
25−32、兄の放浪。兄は、父の近くにいます。体は。しかし、心は、父から遠いのです。25節「ところで」という言葉で、話しが続きます。話しの主なポイントの一つです。「兄息子は畑にいた」とあります。26前半、自分自ら近寄って入るよりも「しもべのひとりを呼んで」、遠くから状況を聞きました。弟の祝宴を聞いて、28節「兄は怒って、家に入ろうともしなかった。」心は遠いのです。父から。父の心から。心の放浪です。。。29節「しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。』」兄は、真面目。努力家。ルールを守っている。完璧。彼は、自分のレジメ、履歴、功績を誇っているのです。。。建前は、父親に近かいですが、本音は、父親から遠いのです。父が喜んでいる所(22―24)からは、離れているのです。体は近いですが、心は、遠く、放浪しているのです。
アメリカ人は、弟に似て、自由を強調し、権利を主張し、自己中心です。これは言いづらいですが、日本人は、兄と似ているのではないでしょうか?私も、儒教の影響の残っている日本で生まれ、育った者です。私たちは、道徳的です。少なくても建前では。犯罪の少ない国です。経済的にも、教育的にも、文化的にも、優れています。でも『神なんか、救い主なんか、キリストなんか、いらない』と思うのです。。。でも、自ら正しいと思う人こそ、神から一番離れているのです。道徳的な人こそ神に帰りにくい、近寄りにくいのです。『自分は、大丈夫だ、十分だ、オッケーだ』とう思うからです。。。道徳主義者は、こう思うのです。『私は、この放蕩息子のように悪い事をしていない。私は、犯罪を犯していないし、人にも迷惑をかけていない。他の人と比べて良い人だと思う。』。。確か、人の基準から見て、真面目なのです。でも、神の基準、聖書、から見てどうでしょうか?自分の歩みをキリストの歩みと比較したらどうでしょうか?本当に自分は、隣人を自分のように愛しているでしょうか?正に、私たちは、「兄」であり、道徳主義者です。神また郷から遠いです。とてもとても悲しい事です。私も、アメリカ人も、日本人も、あなたも、同じ罪人です。。。『クリスチャン』と名のる私、私たちは、兄にとても似ている可能性があります。どうしていわゆる『罪人』は、教会に引かれないのでしょうか?恵みを忘れて、聖書の高い基準で、自分を、人を裁いたりしているのではないでしょうか?私達には、パリサイ的な高慢な心があるのではないでしょうか?。。。しかし、28節、この箇所のように、父なる神が「出て来て」、31−32、兄にも、道徳主義者にも、私とあなたにも、アメリカ人と日本人にも、声をかけるのです。声をかけているのです。
2。愛の源:二人を愛するお父様。父親業を20年以上やって、私の愛がどれほど足りないかをとことん感じています。子供が小さい時、怒ったり、忙しすぎたり、聞いたり、理解してあげたりしませんでした。どんなに私の父親の愛は、足りなかったか!とても悲しいです。。。でも、愛の神は、違います。快楽主義の弟、真面目な兄、二人とも愛されています。。。お父さんの接し方を見ましょう。。。接続詞の「ところが」が聖書の最も特別な言葉の一つです。「ところが」。20節「ところが…父親は」。22節「ところが父親は」。
20―24、弟への愛。。。仏教にも放蕩息子(ちょうじゃぐうじ)の話があります。でも、仏教の話しでは、帰る時、息子は父を恐れます。和解できる前に何年も何年も働かされます。仏教の放蕩息子の話しには、歓迎する前に、父がたくらんで、息子を働きに行かせます。そして、後で、お父さんの方から近寄り、こう語ります。「心を楽にしなさい。私は、いわゆる『あなたの父』です。もう心配しないで。なぜ?私は、年取って、あなたは若くて元気です。あなたが働いている間、あなたは、嘘ついたり、怠ったたり、怒ったり、文句言ったりしなかった。あなたは、他の働き人が犯したような罪を犯したのを見た事がない。今から、あなたは、私の特別な子になる。」働いたから、良い子になってから、やっと帰り、息子になれるのが仏教です。
聖書の放蕩息子の話しは、対照的です。違うのは、ひたすらただ恵なのです。立ち返る弟に対して、父は、どう返事するのでしょうか?20節「ところが、まだ家までは遠かったのに」。。。で、動詞を見てください。英語では、名詞が大事です。が、日本語では、動詞が大事です。。。一、20節、「見つけ」。二、「かわいそうに思い」。三、「走り寄って」。「走り寄る愛」と滝元明先生が言いました。四、「抱き」。五、「口づけした」。六、22―23、「しもべたちに言った。」で、言った言葉の中の動詞を見てください。七、『急いで』。八、『一番良い着物を持って来て』。九、『着せ』。十、『手に指輪をはめさせ』。十一、『足にくつをはかせ』。十二、『肥えた子牛を引いて来てほふり』。十三、『食べて祝おう』。息子の回復を覚え喜び、十四、『死んでいたのが生き返り』。十五、『いなくなっていたのが見つかった。』。。これが私たち立ち返る者に対する神の深い愛です。私たちにかかってないのです。神様に、神の行動に全てかかっているのです。ただ恵です。。。十字架を見て下さい!。。。これが私たちに対する計り知れない豊かな神の愛です。エペソ2:4「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」とにあります。
28―32、兄への愛。この話の最後のほとんどが兄の話です。親を疑う、近寄らない、心が遠い、心が冷たい兄の話しです。ポイントでもあります。28節、兄が遜って父のところに行くべきなのに、父は謙虚に「出て来」たのです。時間をかけて説明し、丁寧に説得しているのです。28節後半、叱らず「いろいろなだめてみた」のです。。。29−30、「しかし兄は父にこう言った。」父は、息子の話をしっかり聞いたのです。。。31節、兄も、父の恩恵を常に受けていたのです。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。』。。でも、真理を変えなかった真実な愛でもあるのです。32節『いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』。。父親にとって兄息子も、弟息子と同様に、極めて大事だったのです。。。そうです。この放蕩息子の話は、実は、兄の話しなのです。兄のような人たち私たち、あなたと私の話しなのです。
レンブラントの油絵「放蕩息子の帰還」を見て下さい。レンブラントは『光と陰』で有名です。光は、お父さんと放蕩息子にあります。恵は、ここにあるとレンブラントは語っていると私は理解しています。放蕩息子は、謙ってお父さんの足下にひざまずいています。お父さんは、両手を愛情持って放蕩息子の肩に置いています。しかし、陰は、右側の兄の方にあります。彼は、弟を上から見下しています。恵みは、ここにはないように見えます。。。しかし、兄のような人にも、恵みの光が必要なのです。恵みは、兄のような、私とあなたにも語られています。
14―21「帰る」のです。弟のような快楽主義者の私達のために、兄のような真面目な私達のために、創り主の天の父に帰るお手本は、あるのです。道徳的な兄にあるのではなく、放蕩した弟にあるのです。。。先ず、神の摂理を見てください。14節「その国に大きい飢饉が起こり」ました。今のパンデミックのような困難が帰るきっかけになるのです。14−16「彼は食べるにも困り始めた。」最低です。15節前半、人に頼らざるをえない。15節後半、汚い豚の世話をさせられる。16節前半、豚の餌まで食わなければならない。16節後半、誰も気にかけてくれない。。。神は、状況、自然、飢饉、コロナヴィルスを用います。摂理によって人をも使います。が、人は、究極的には、頼りないのです。。。困難は、私たちを神に近よせる大事な恵みです。
弟の態度を見てください。17−18、飢饉のおかげで、神の摂理によって、彼は「我に返った」のです。『父のところには… 』と。。。4回も繰り返してありますが、18−21、彼は『罪を犯し』た、と認めたのです。私たちの罪は、先ず、人に対してではなく、天の神に対して罪を犯したと、正直に真実に認めるのです。。。彼は、謙虚でした。19、21「子と呼ばれる資格はありません」と2回も書いてあります。。。自分を正直に見るのです。罪を認め悲しむのです。あまりにも足らない自分の善、パフォーマンス、功績、行い、ベストを否定するのです。
でも、肯定的に、20節、彼は、父に向かって行ったのです。20前半「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。」彼は、帰ったのです。方向転換したのです。。。私は、ある方にこう例えました。あなたは、イエス様に背中を向け、無視して歩いています。が、イエス様は、あなたの肩を叩きます。そして、あなたは、振り向いて、イエスに向くのです。主の十字架を信じ仰ぎ見るのです。。。主イエスは、天の郷を離れ、私たちの罪を代わりとなって十字架上で背負ったのです。また、復活しました。愛の神に安らぐのです。恵にどっぷり浸かるのです。父のふところに飛び込むのです。
帰って、生ける神の恵と愛の鼓動を聞くのです。14世紀ごろの思想家・聖職者トマス・ア・ケンピスは、こう言いました。「喜びて、神のささやきの鼓動を聞く人は、幸いなり。」この恩方のふところに飛び込むのです。帰るのです。