歌手とパフォーマーとして高い評価を受けている『エグザイル』のグループ名の由来を知っていますか?なぜリーダーのHIROは、放浪者という意味を持つエグザイルと言う名前を選んだのでしょうか?エグザイルの元々の名前は、「Soul Brothers」だったそうです。グループが変わり、高い歌手能力を持つメンバーが参加し始めたことで、新しい名前を考えることになったのです。その時、HIROが『エグザイル』という名前を考えつきました。エグザイルは『放浪者』という意味です。HIROの元に、様々なメンバーが集まり、オーディションによって、歌に能力の高いもの達が参加して出来たことから来ます。それぞれの道を放浪してきたて、集まったのです。
辞書によると「放浪は、さすらうこと、あてもなくさまよい歩く」という意味だそうです。。。 私たちは、私たちの代表アダムの罪のゆえに、放浪者と成ったのです。創世記4章のポイントは、これです。アダムの罪とその結果の放浪は、人間全てが受け継いだ事実です。アダムからカインへと。カインからレメクへと。レメクから私達へと。。。あなたも、放浪者の「エグザイル」なのです。
1.1―15、23−24、放浪の原因。
聖書の主なテーマは、これです。人類の罪によるさ迷い、そして神による救い。創世記4章は、私達人類の問題、罪とその結果の放浪、を教えて下さいます。アダムの罪性質は、1−8、カインに受け継がれました。
4節、アベルは「彼の羊の初子の中から、それも最良の物を、それも自分自身で持って来た」のです。最善のものを生ける神に捧げるのは、当たり前の事で、神の御心、掟でした。アベルは、神を喜ばせたのです。
しかし、カインは、宗教的でした。が、ただ義務的に捧げ、礼拝しました。「はい、お勤め。」態度が間違っていたのです。小畑進氏によると「そのへんに生えている菜っ葉を抜いて届けさせた」ようにも読めるのです。ただ建前で、最小限の努力しか使わなかったのです。「なげやり」で、結果がどうなろうとかまわなかったのです。「俺には俺のやり方があるんだ!」私たちは、どうでしょうか?どう礼拝しているのでしょうか?。。。カインの捧げ物の間違っているところは、カインの後の行動によってより分かるのです。そうです。最終的兄弟を殺すのです。。。殺人は、罪は、その心は、間違った礼拝から来るのです。
人類の始めの罪は、殺人でした。その上、それは、自然死ではなく、老衰(ろうすい)でもなく、殺人でした。でも、カインだけではなく、23−24、その後の7代目のレメクにもその罪の性質が受け継がれて行きました。23節後半「私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。」レメクは、カインと同じことをしたのです。殺人。
でも、その罪の性質は、拡大して行っているのです。今の私に、あなたに、私たちにも受け継がれています。私達みんなが、罪の性質を受け継いでいます。私たちは、人を手で殺(あや)めていないでしょう。でも、心の中で、態度で、言葉で「死ね」、行動で(人と距離置くことなどで)いわゆる『殺し』たりしています。。。神を無視する社会が広がって行き、私たちは、さ迷っているのです。
岩崎隆一容疑者は、カリタス小学高の20人を傷つけ殺しました。彼が自殺したから、動機は、100%わかりません。でも、可能性としては、恨みがあったからです。妬みが殺人に繋がったのです。彼は、普通の小学校に行かされ、一緒に住んでいた、いとこが立派なカリタス小学校に行けたのです。そこで、差別を感じ、恨みが増し、殺した、と思われています。カインと似ていませんか?
犯罪者は、実は、普通の人です。妻、医者、先生、オーエル、大学生、親、大工。近所の人が犯罪者についてマスコミに聞かれると、意外にこう言うのです。「中が良かった、丁寧、真面目、おとなしい、何のトラブルもなかった」などなど。実は、本当は、私とあなたとは、あまり変わらないのです。
「ドングリは、森になる」と聞いたことはありませんか?すごい大きなものが小さなドングリに秘められています。憎しみが殺意になる可能性があるのです。妬みがノイローゼに。情欲が姦淫に。ゴシップが中傷に。。。憎しみと妬みのある心は、危険です。悪魔の餌食となるのです。
カインは、神によって、悔い改める色んな機会が与えられました。しかし、全然罪を認めないのです。6節、アベルを殺す前に、主は、カインに問いかけ、チャンスを上げました。「なぜ、あなたは憤っているのか?」8節「しかし、カインは」神を無視し、アベルを殺しました。9節、主は、また問いかけます。「あなたの弟アベルは、どこにいるのか?」罪を悔い改めるチャンスを与えているのです。13節、カインは、主の憐れみを乞(こ)うのです。「私の咎は、大きすぎて、にないきれません。」で、主は、憐れみを示すのです。15節「そこで、主は、彼に出会う者が、だれも彼を殺すことのないように、カインに一つのしるしを下さった。」カインにここまで哀れみを示し、悔い改めるチャンスを与えるのです。
神は、カインに、人間に、哀れみを示しています。神の優しさを見て下さい。殺人罪でカインは、裁かれるべきでした。が、神は、彼を哀れんだのです。「哀れんで」とカインが願ったら、神は、すぐ返事したのです。あの正しい神は、殺人者を守ったのです。一般恩恵です。私たちに対する神の恵みです。でも、神の恵みは、私達に罪の悔い改めを促すためにあるのです。罪を認め悲しむチャンスを忍耐強く与えているのです。今も。全ての人は、クリスチャンも、悔い改めることを学ばなければなりません。常に、罪を認め、悔い改め、悲しむのです。「この罪びとの私を憐れんでください」と。
2。12―22、放浪の事実。
このメッセージのポイントです。12節「あなたは地上をさまよい歩くさすらい人となるのだ」と神は、カインに言いました。14節「ああ、あなたはきょう私をこの土地から追い出されたので、私はあなたの御顔から隠れ、地上をさまよい歩くさすらい人とならなければなりません。」16節「それで、カインは、主の前から去って」行きました。放浪の始まりですね。小畑進牧師は、こう書きました。「あれほど慈しまれて作られた人類が、二代目にして、神に背を向けて去っていく」のです。ブレーズ・パスカルは、パンセでこう書きました。「われらは本来あるべきところから落ちてしまった」と書きました。
16節後半「カインは、エデンの東、ノデの地に住みついた。」ノデは、「さまよう、さすらう」と言う意味です。「落ち着きがない、絶えず動いている放浪者」、神から逃れようとする逃亡者の住み家、者の町々だったのです。カインは、自分の罪のゆえに、兄弟のアベルから、家族から、神から、遠ざかれました。また、自ら神と家族から縁を切ったのです。人間関係の断絶です。彼は、故郷のない、安全と安心のない放浪者と成ったのです。今も、私たちの世界は、神から離れた社会です。神から離れている人は、拠り所のない、故郷のない放浪者です。楽園、故郷から離れて行くのです。一歩一歩、一日一日エデン楽園から、神から遠ざかり離れて行く人間の私たちです。私とあなたです。そして、人類の放浪は、ずっと続いているのです。
神から離れていて迷っているから、痛みがあるから、17節、都市は、一種の鎮痛剤(痛み止め、麻酔)に成ったのです。罪の罪悪感を感じ、神から離れて、何かで心の空洞を埋めなくてはならなかったのです。
直感に反する事は、神から離れた人は、成功します。17節“都市”、17―20“家族”、21節“音楽”、22節“道具”、23−24節“武器”を作ります。言えば、文明を作るのです。でも、実は、鎮痛剤なのです。放浪の寂しさをまぎらわさせるためです。辛い生活の唯一の楽しみ頼みです。「神から外れても、これだけ楽しいのだという騒音が聞こえて来そうな。」
私たちは、神から離れても、色んなもので人生を改善し、高めようと思うのです。大いに成功しますが、神を抜きにした「もぬけの殻」の虚しい成功です。私とあなたにとって「より豊かになる、より美しくなる、より強くなる。ということがどんなに落とし穴に」成っているのでしょうか?。
私たちは、何かで自分の心の虚しさを埋めようとします。良いものですが、仕事、家庭、教育、娯楽で埋めようとします。でも、心は、空っぽなのです。聖アウグスティヌスは、こう言いました。「あー主よ、あなたは、ご自身のために私たちを造られた。そして、私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、けして安らぎを得ることができない。」私達一人一人の常です。
クリスチャンも。黙示録2:4「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」キリスト者も皆、迷いやすいのです。詩人は、こう書きました。”Prone to wander, Lord, I feel it. Prone to leave the God I love….”「主よ、私は、迷いやすいです。とても感じます。愛する神を離れやすいです。」。。でも、故郷の造り主へと帰られるのです。
3.25―26、放浪からの回復。
私たちは、自分の弱さを知り、造り主救い主に叫び呼び求めて、回復されるのです。18節、レメクは、「強い」という意味です。でも、26節の「エノシュ」と言う名前は、その反対の「弱い、脆(もろ)い」という意味です。私たちは、自分の卑しさや弱さを実感し、神に心を向け、帰るのです。罪や弱さを深く実感しているから、神に全く頼らなければならないのです。自分自らの弱さを知って、主にあって強くされるのです。小畑進牧師は、こう書きました。「『ひと』は脆いもの、弱いもの。とかく、強さが宗教の世界ではマイナスになることがあるように、弱さが、むしろ宗教の世界では必要なこと。」強いレメクの家には、産業・技術・芸術に名のある人物が多くて、盛んだったのです。でも、セツの家系には、これと言う成功者をも見えないのです。でも、つつましい礼拝の心が、その宝だったのです。『あの家からは、大臣、大将、博士が出ている』と世間は言うでしょう。しかし、私たちキリスト者は、こう思うのです。『だから何だというのですか?名もない庶民で良い。私の家は神を畏れる宝を受けついていきたい。』
弱さを知った時、26節「そのとき、人々は主の御名によって祈ることを始めた。」この祈りは、恩方を信じ仰ぐことから始まります。が、そこで終わらないのです。さらに、主を崇め、伝えるように続くのです。弱さ、罪を知って、神様に叫び呼び求め、神との徹底した深い関係に戻るのです。
カイン達は、成功、都市、音楽、武器、道具を作ることによって、心の空洞を埋めようとしました。でも、セツ達は、神への信仰と礼拝で心を満たしました。私達は、成功や豊かな生活に囚(と)われないで、神との関係に心奪われるのです。
神様に叫び呼び求め、さらに礼拝するのです。私とあなたの一番の課題は、これです。「何を誰を礼拝するか?」です。仕事、家族?生ける神、主イエス・キリスト?それによって、全てが決まります。ここに回復があるのです。
でも、不思議なことが起こるのです。私達が勝手に逃げ、さまよい、迷っているのに、私達の真の領主主イエス・キリストが、私たちを探し求めに来るのです。ルカ19:10「人の子は、失われた者を探して救うために来たのです。」そして、主イエス・キリストが迷いもせずに、十字架まで行ってくださったのです。罪のひとかけらもないのに、十字架上で、代わりに、闇を経験し、地獄まで行ってくださったのです。私たちが神の身元に帰ることができるように。。。恩方に立ち帰るのです。ぜひ!今!
0 件のコメント:
コメントを投稿