塩狩峠という小説で三浦綾子は、罪と救いを例えます。主人公信夫は、信仰告白を書くのです。『わたくしは、自分が人よりもまじめな人間であるという自負を捨てることができませんでした。たまたま、東京から札幌に来た年の冬、寒い街頭で路傍伝道をしている伊木(いぎ)という先生の話をわたくしは聞きました。その時、大きな感動を受けたわたくしは、自分はキリスト信者になってもよいと思いました。。。しかしその時伊木先生は、あなたの罪がイエス・キリストを十字架につけたことをみとめますかといわれました。しかし、わたくしは、イエス・キリストを十字架につけるほどの罪はないと思いました。わたくしは至極(しごく、この上もない)まじめな人間であると自負していたからです。ところがその直後、先生はわたくしに聖書の言葉を、ただひとつでもて徹底的に実行してごらんなさいといわれました。わたくしは良きサマリヤ人のところを読み、自分ならこのような不人情なことはするまい、自分なら良きサマリヤ人になれるのではないかと、うぬぼれました。そして、ある友人のために、ひとつ徹底的に真実な隣人になろうと思いました。わたくしは彼の隣人になるために、さまざまな損失を承知の上で、その友人のいる旭川に参りました。そして、彼はわたくしを受け入れくれませんでした。わたくしは彼を非常に憎みました。あのサマリヤ人のように、山道に倒れている、生きるか死ぬかの病人を一生懸命介抱しているのに、なぜどなられるのか、わたくしにはわかりませんでした。わたくしは彼を救おうとしました。だが彼はわたくしの手を手荒く払いのけるのです。彼が払いのけるたびに、わたくしは彼を憎み、心の中で罵り(ののしり)ました。そしてついには、わたくしの心は彼への憎しみで一ぱいに満たされてしまいました。そして、わたくしはやっと気がついたのです。毎日毎日が不愉快で、わたくしは神に祈りました。その時にわたくしは神の声を聞いたのです。お前こそ、山道に倒れている重傷の旅人なのだ。その証拠に、お前はわたしの助けを求めて叫びつづけているのではないか、と。わたくしこそ、ほんとうに助けてもらわなければならない罪人だったのです。そして、あの良きサマリヤ人は、実に神の独り子、イエス・キリストであったと気がついたのです。それなのに、わたくしは傲慢にも、神の子の位地に自分を置き、友人を見下していたのでした。いかに神を認めないということが、大いなる罪であるかをわたくしは体験いたしました。そして、自分のこの傲慢の罪が、イエスを十字架につけたことを知りました。』
2022年6月3日金曜日
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