2022年6月16日木曜日

“This is justification by grace proclaimed and practiced. A dead doctrine? Hardly.”




From Tim Keller’s sermon. ティムケラーのメッセージより。(日本語の翻訳は英語の下に)

 "Miroslav Volf is a professor of theology at Yale University. Years ago he was walking through the streets of Baltimore with an inner city pastor named Mark Gornik…. Mark was showing him all kinds of people in that poor inner-city community of Baltimore. Their lives were coming together. Families and communities were coming together. They were really pulling together, and Volf was amazed at the hope and the progress in social justice that was happening there.

At one point, Mark Gornik said something that shocked him. Miroslav Volf says in his essay something like, “Pastor Mark Gornik of New Song made the point almost in passing. As he was explaining the blight of the inner cities, he suggested that the doctrine of justification by grace alone contained untapped resources for healing the inner city.” This shocked Volf.

“For many a theologian, justification by grace is an idle doctrine. Some have abandoned it. They deem it generally useless or at least unhelpful when it comes to healing even lesser social pathologies than the cycle of poverty, violence, and hopelessness. How could the dead streets receive life from its seemingly dead doctrine?

But upon reflection, imagine you have no job, no money, you live cut off from the rest of society in a world ruled by poverty and violence, your sin is being the ‘wrong color,’ and you have no hope that any of this will ever change. Around you is a society governed by the iron law of achievement. Its gilded goods are flaunted before your eyes on TV screens, and in a thousand ways society tells you every day that you are worthless because you have no achievement.

You’re a failure, and you know that you will continue to be a failure because there is no way to achieve tomorrow what you have not managed to achieve today. Your dignity is shattered and your soul is enveloped in the darkness of despair, but the gospel tells you that you are not defined by outside forces. It tells you that you count.

Even more, it tells you that you are loved unconditionally and infinitely, irrespective of anything you have achieved or failed to achieve. Now, imagine this gospel not simply proclaimed to individuals, but embodied in a community.” That’s what happening here. “This is justification by grace proclaimed and practiced. A dead doctrine? Hardly.”


ミロスラフ・ヴォルフはイェール大学の神学教授である。数年前、彼はマーク・ゴルニックという都心の牧師と一緒にボルチモアの街を歩いていた......。マークは、ボルチモアの貧しい都心部のコミュニティで、彼にいろいろな人を見せていた。彼らの生活はまとまりつつありました。家族もコミュニティもひとつになっていた。ボルフは、そこで起こっている希望と社会的公正の進歩に驚きました。
ある時、マーク・ゴルニクが言った言葉に、ヴォルフは衝撃を受けました。ミロスラフ・ヴォルフは、エッセイの中で「ニューソング(教会)のマーク・ゴルニク牧師は、ほとんど偶然にその点を指摘した。彼はインナーシティの荒廃を説明しながら、恵みのみによる義認の教義にはインナーシティを癒すための未開発の資源が含まれていることを示唆したのだ。」と。これはヴォルフに衝撃を与えた。
「多くの神学者にとって、恵みによる義認は無用な教義である。ある者はそれを放棄した。貧困、暴力、絶望の連鎖よりも小さな社会病理を癒すためには、一般的に役に立たない、少なくとも役に立たないと考えているのだ。その一見死んだような教義から、どうして死んだような街が生命を受け取ることができるのだろうか。
しかし、よく考えてみると、(例えば)あなたには仕事もお金もなく、貧困と暴力に支配された世界で社会の他の部分から切り離されて生きていて、あなたの罪は「間違った肌の色」であり、このどれもが今まで変わるという希望を持っていないと想像してみてください。あなたの周りには、達成の鉄則に支配された社会がある。テレビ画面では金ピカの商品が目の前で誇示され、社会は毎日、『お前は何の実績もないから価値がない』と言い放ちます。
あなたは失敗者であり、これからも失敗者であり続けるでしょう。なぜなら、今日達成できなかったことを、明日達成することはできないからです。あなたの尊厳は砕かれ、あなたの魂は絶望の闇に包まれています。しかし、福音は、あなたは外部の力によって定義されるものではないことを教えてくれます。あなたは、高価である、といっているのです。

さらに、福音は、あなたが何を達成したか、あるいは達成できなかったかにかかわらず、あなたは無条件に、無限に愛されていると教えてくれます。この福音が単に個人に宣言されるのではなく、共同体の中で具現化されることを想像してみてください。この町で起こっているのはそれです。『恵みによる義認 』を宣言し実践しているのは死んだ教義でしょうか?けっしてそうではありません。」


2022年6月3日金曜日

自分のこの傲慢の罪が、イエスを十字架につけたことを知りました。


塩狩峠という小説で三浦綾子は、罪と救いを例えます。主人公信夫は、信仰告白を書くのです。『わたくしは、自分が人よりもまじめな人間であるという自負を捨てることができませんでした。たまたま、東京から札幌に来た年の冬、寒い街頭で路傍伝道をしている伊木(いぎ)という先生の話をわたくしは聞きました。その時、大きな感動を受けたわたくしは、自分はキリスト信者になってもよいと思いました。。。しかしその時伊木先生は、あなたの罪がイエス・キリストを十字架につけたことをみとめますかといわれました。しかし、わたくしは、イエス・キリストを十字架につけるほどの罪はないと思いました。わたくしは至極(しごく、この上もない)まじめな人間であると自負していたからです。ところがその直後、先生はわたくしに聖書の言葉を、ただひとつでもて徹底的に実行してごらんなさいといわれました。わたくしは良きサマリヤ人のところを読み、自分ならこのような不人情なことはするまい、自分なら良きサマリヤ人になれるのではないかと、うぬぼれました。そして、ある友人のために、ひとつ徹底的に真実な隣人になろうと思いました。わたくしは彼の隣人になるために、さまざまな損失を承知の上で、その友人のいる旭川に参りました。そして、彼はわたくしを受け入れくれませんでした。わたくしは彼を非常に憎みました。あのサマリヤ人のように、山道に倒れている、生きるか死ぬかの病人を一生懸命介抱しているのに、なぜどなられるのか、わたくしにはわかりませんでした。わたくしは彼を救おうとしました。だが彼はわたくしの手を手荒く払いのけるのです。彼が払いのけるたびに、わたくしは彼を憎み、心の中で罵り(ののしり)ました。そしてついには、わたくしの心は彼への憎しみで一ぱいに満たされてしまいました。そして、わたくしはやっと気がついたのです。毎日毎日が不愉快で、わたくしは神に祈りました。その時にわたくしは神の声を聞いたのです。お前こそ、山道に倒れている重傷の旅人なのだ。その証拠に、お前はわたしの助けを求めて叫びつづけているのではないか、と。わたくしこそ、ほんとうに助けてもらわなければならない罪人だったのです。そして、あの良きサマリヤ人は、実に神の独り子、イエス・キリストであったと気がついたのです。それなのに、わたくしは傲慢にも、神の子の位地に自分を置き、友人を見下していたのでした。いかに神を認めないということが、大いなる罪であるかをわたくしは体験いたしました。そして、自分のこの傲慢の罪が、イエスを十字架につけたことを知りました。』