日本人は、よく『自転車をこいでいる人』に例えられています。常にこいでいなければならないのです。そして、自転車をこぐのを止めると、倒れるのです。立ち止まって、休むことをしないのです。『もっとしなければ、働かなければ』と思うのです。そして、とても疲れ果てているのです。。。また、クリスちゃんにも、多くの疲れが見えます。この文脈を見ると、「重荷」は、宗教的な重荷です。宗教家パリサイ人は、自分でも実践していような重い要求を人々に乗せていました。旧約聖書からの律法や、細かい人間的な掟を。人々は、潰されそうでした。。。私は、香川にいた頃、ある教会のバーベキューで、ある日本人のクリスチャンと話していました。彼は、中学生の先生で、仕事の量は異常でした。教会で、喜びを持って奉仕する余裕もありませんでした。自分の家族を『母子家庭』と言っていました。彼は、忙しすぎて、お父さんとして、家にいなかったからです。話している間も、目に疲れが見えました。キリスト教に対する間違った理解が私たちに重い物を置いているのではないでしょうか?。。。神の掟は、聖書だけではなく、人の心にも、刻まれています。「良心」とも言います。でも、聖書の基準だけではなく、自分の良心の基準に達していないのです。完全になろうとしています。罪悪感を感じるのです。重くのしかかって、疲れています。。。なぜクリスチャンは、互いに喧嘩してしまうのでしょうか?時々教会の人は、あまりにも繊細、敏感、怒りっぽい、神経質ではないでしょうか?これは、素直に、自分にも見えます。。。宣教師牧師も、注意しなければなりません。ケラー牧師は、こう言いました。「私は今朝これを読んだ時、涙が出ました。なぜなら、私は、疲れ果ている時が多いからです。」
疲れ果てている私たちみんなは、クリスチャンも、ノンクリスチャンも、どうするべきでしょうか?。。。『レム睡眠』って知っていますか?長い睡眠よりも、レム睡眠の深い睡眠が必要だそうです。何時間も寝ていても、深い眠りがなければ、起きても、ぼっとして集中できないのです。熟睡が必要です。私たちには、霊的な心のレム睡眠が必要です。深い安らぎが必要です。。。私たちは、いろんな方法で重荷や疲れから逃れようとします。私や日本人は、人の賞賛によって、安らぎを得たいのです。でも、批判されたら、もう終わりです。。。仕事、会社、妻、夫、子供に頼って安らぎを得たいのです。家族は、大事です。でも、間違った期待をすると、家族を潰します。。。温泉?喫茶?買い物?旅行?このような『いっぷく』も、大事です。でも、究極的な疲れ 、心の叫びは、解決せれないのです。
疲れている私たちは、日本人、クリスチャンも、牧師宣教師も、拠り所、ホーム、安らげる故郷が必要なのです。常に必要です。マタイ11:28で主イエスは、こう言っています。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。。。」
1。28節、「私に来なさい」と語っている救い主。
先ず、救い主が必要なのです。疲れた私たちに、全ての人に「わたしがあなたがたを休ませてあげます」と主は、語っています。。。イエスが私たちに「私に来なさい」と招いている時、創り主なる唯一の神が言うようなことを言っているのです。。。私ダビデは「私に来なさい」というような大胆なことは言えないのです。。。でも、イエス御自身は、生ける神であるからこそ、こう招けるのです。「私にきなさい!」主イエスは、真の神であり、救い主であり、素晴らしい力と愛を持って、あなたとあなたの疲れをかえりみて下さいます。救ってくださいます。
初めのメッセージに出ましたが、生ける神が天地宇宙人間を創った後、先ず、神ご自身が安息したのです。創世記2:1「天と地とそのすべての万象が完成された」後、2節、神は「なさっていたすべてのわざを休まれた」とあります。そして、人間は、他の何をもする前に、神様とともに休んだのです。人間は、先ず、安息し、安らいだのです。そして、先ず、あなたは、私は、救い主に安らがなければなりません。。。主イエスは、この地上に来た時、完全に全く神の掟に従いました。私たちの代わりに、私たちの為に、掟に従ったのです。そして、ヨハネ19:30、十字架上で、死ぬ直前「イエスは、『完了した』と言われた」のです。。。私たちは、自分の行い、功績、道徳によって、自分と自分の存在価値を立証しようとします。そして、人生の自転車をこいで、疲れ果てているのです。主イエスは、こう言っています。「あなたは、自分が有能であることをもう示す必要はない。『自分はOKだ』と、功績で自分を立証する必要はもうない。私が十字架で、全てを完成したから、代価を完全に支払ったから、私と人の賞賛を得る為には、もう頑張らなくてもいい。私に来て安らぎなさい。私の功績、十字架の行い、があなたの行いと功績となるのだ。それがあなたを贖うのだ。罪を償うのだ。ただ信じ仰ぎ安らぎなさい。先ず、私に来なさい!」。。。私たちが安らげるように、イエスは、こう動き働いたのです。
「私に…私に…来なさい」と主イエスは、断言しています。『私のみが安らぎを与えることができます』と宣言しています。ものすごく大胆で強い主張です。私たちは、自ら自分自身に行くのではないのです。自分を救えないのです。モーセ、マリヤ、釈迦、孔子、モハメットに行くのではないのです。漠然とした「神」に行くのではないのです。哲学に行くのではないのです。イエスという恩方に行くのです。唯一の救い主に行くのです。他のそれに代わる別の真の助けはないのです。
10年以上前のことです。が、あるお遍路さんが私たちの香川の高瀬の家に泊まりました。『心と体ともに疲れていた』と言っていました。『修行するために仏教をする』と言っていました。しかし、不思議に、彼のカートの荷物に中に聖書3冊ありました。『癒されるために』読んでいたと、言いました。。。釈迦の生後の言葉は「絶えず努力しなさい」だったそうです。真の救い主イエス・キリストは「先ず、働くのを止めなさい。先ず、安らぎなさい」と言っています。。。聖アウグスティヌスは、こう書きました。「神よ、あなたは私たちを、ご自身にむけてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」イエス・キリストのみが真の安らぎと救いを与えることができるのです。安らぎなさい!主に!
2. 29-30、「私から学びなさい」と語っている師匠。(先生)
疲れたキリスト者に、奉仕者に「わたしから学びなさい」と主イエスは、語っています。。。私たちは、先ず、救い主に安らぐ必要があります。先ず、救い主です。でも、それで終わらないのです。救い主でもあります。「くびき」はあるのです。師匠、先生として、主イエスから「学び」従う必要があります。。。断言します。キリストに安らいで、従わないことはあり得なのです。ただ「赦して、天国いかせて!」で終わってはならないのです。また、私たちは、自らの条件、基準を立てて従うのではないのです。また、自分が知っているかのように振る舞わないのです。主イエスとその基準と掟にコミットするのです。自分の自らの道徳を捨て、キリストご自身とその十字架に学び、従うのです。。。どうでしょうか?真剣に主に従っていますか?学んでいますか?
29節「キリスト(ご自身)から学ぶ」のです。。。キリスト者は、先ず、哲学、宗教、人々から学ぶのではないのです。耐えられないような重荷を負わされます。先ず、キリスト自身から学びなさい、とみ言葉に書いてあります。。。具体的に言うと、福音書からキリストを学ぶのです。また、キリストとその恵みを聖書全体からも学ぶのです。私たちのために十字架上で死なれた恵み深い方から学ぶのです。主イエスは、どのような方か、何を語ったか、何をなさったかを学ぶのです。キリストご自身がキリスト教のハート、心髄、エッセンスですから。人生一生でキリストの弟子、キリストに学ぶ人、になって行くのです。聖書を通して、毎日、キリストを仰ぎ、学び、恩言葉を聞くのです。29節、イエス様の心優しさ、へりくだった心を学ぶのです。。。私たちの従順は、人間的なルール、命令、律法であってはなりません。キリストとういうお方、その恵み、彼への安らぎに満ち溢れた従順でなければなりません。喜びの従順です。。。30節後半「そうすればたましいに安らぎが来ます。」
ニュウシティカテキズムにこの例えがあります。「私たちは恵みによって救われたため、私たちは自分のものではない。この一点です。ある女性が私(ケラー牧師)に こう言ったことがあります。『もし私の救いが自分の力によるもので、自分が救 いに貢献していたとしたら、その貢献のため神は私に何も言えないでしょう。けれど私は恵みによって、ただ恵みのみによって救われたのですから、私は神に従うほかありません。』その通りです。あなたはあなたのものではありません。 あなたは代価によって買い取られたのです。」そうです。十字架上で全て支払ったから、主のものだから、彼に学び、従うのです。それは、恵みが溢れているからです。
イエス様は、ご自身から学ぶ理由を幾つか下さいました。。。一、29節前半、主は「心優しく、へりくだっているから」です。イエス様を信じると、献身すると、嫌なところに連れていかれると思う時はないでしょうか?。。。イエスご自身の性質は、根本的に柔和だから、イエスの掟は重すぎないのです。大学で、仕事場で、パワハラのことをしばしばニュースで聞きます。主は、決して意地悪をしないし、悪用は決してしないのです。主は「へりくだっているから」、自分を低くするから、低い所にいる、罪深い私たちに手を差し伸べられるのです。つまずく私たちの罪を赦すのです。鈍い私たちに対して、忍耐深く待っておられます。。。もしあなたは、イエスの掟に従おうとして、常にいらだったり、心配したり、怒ったり、落ち込んだり、不満であったりするなら、イエスと間違って繋がったり、歩んだりしているのではないでしょうか?あなたは、イエスの十字架の恵みではなく、自分の行い、ルール、道徳によって生きようとしている可能性があるのです。。。ティム・ケラー牧師は、こう書きました。イエス・キリストのみがあなたを酷使しない「ボス」で、主(ぬし)です。仕えながらも、従いながらも、仕事をしながらも、キリストにあって、自分の意義を見いだすと、心の安らぎを得るのです。。。マタイ12:20「彼(キリスト)はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」のです。
二、29節、主ご自身が先ず「くびきを負って」いるからです。キリストの「くびき」とあります。ある先生からこう聞きました。このくびきは、ある姿を描いています。牛が引っ張るすきは、とても重いです。また、土は、とても固いです。ですから、二つの牛が一緒にすきを引っ張らなければなりません。牛は、一頭で引張るのではなく、二頭で引っ張るのです。そのすきは、共に引張られるように、その一つのくびきは、二頭両方にかかっているのです。いや、実は、一頭は、経験あるから、より力あるから、指導し、導いているのです。。。クリスチャンは、時々こう思うのです。「初めは、恵ですが、後は、自分の頑張りだ。」でも、信仰生活の中で、私たちは、掟に、自分一人で、従おうとする必要はないのです。自分一人で奉仕する必要はないのです。キリストが共に負って下さるのです。仕えてくださるのです。いや、先行って、切り開いて下さいます。一緒に歩むイエス様を常に覚え、常に意識するのです。安らぎながら、従い、仕えるのです。
三、30節、主の「くびきは負いやすく、荷は軽いからです。」 ステイブン・チルダーズ博士はこのような話しをしました。『ある人がハイキングをしていると、野原の向こうに家があるのが見えました。そしてその遠い家の横には、男の人が激しく手動の井戸から水を汲んでいるような光景が見えました。その人が見ていると、その男の人はなおも、ものすごい勢いでポンプを押し続けていました。まるで疲れを知らないかのように、手の動きを少しも遅くすることもなく。また止めることなどしようともしないで、上下にポンプを押し続けました。本当にそれは、驚くべき光景なので、その人は、その井戸のほうへと近づいていきました。近づくにつれて、井戸のところにいるのは、男ではなかったのです。男性に見えるように描かれた、木でできた人の形でした。猛スペードで水を汲んでいたと見える腕は、ひじとちょうつがいで繋がれていて、手は針金で井戸の取っ手に繋がれていました。水が溢れ出ていたのは、その木でできた人形によるのではなかったのです。それは掘り抜き井戸で、水がポンプなしでも地上に湧き出てくるのです。実際は、力強く湧き出てくる水が、その人形を動かしていたのです。』。。私たちは、キリスト者は、何もしないわけでは無いのです。私たちの手を井戸と取っ手に置いて、神の恵みと力によって、働き、務め、仕えるのです。。。鷲が風に乗るように。
疲れて重荷を負うっていますか?主イエスのところに行くのです。主から学ぶのです。大事なポイントはこれです。「私のところに来なさい。。。私から学びなさい。」たったの3節で6回も「わたし」と、主は言っています。キリスト中心です。あなた中心、行い中心だと重すぎます。キリスト教ではないですし、聖書ではないです。キリストという恩方に自身を捧げ献身するのです。キリスト者は、そうするのです。そうしたいのです。イエス様は、あなたの『主』ですから。。。でも、キリスト中心だから、重すぎないのです。主イエスは、あなたの源ですから。自分から、自分の献身、道徳から、目をとって、キリストを常に仰ぐのです。常に、奉仕をしながら、遊びながら、仕事しながら、勉強しながら、家事をしながら、心を主イエスに向けることを学び続けるのです。。。 『来なさい!』と主は、言っています。で、私は、あなたは、喜んで行くのです。彼に真の「安らぎ」がありるのです。真の故郷は、キリストご自身なのです。
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