先ず、ヨハネの黙示録21:1−8を読んでください。
あのイギリスの名作家CSルイスは、こう書いています。私たちがもしもこの世界にあって満足できない自分を発見するなら、他の世界のために造られたのでないかと考えなければならない。何かが変なのです。私たちは、この世界に実はフィットしてないいのです。聖アウグスティヌスは、こう書いています。「(神よ)あなたは私たちを、ご自身のためにお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです。」
「はじめに神は、天と地を創造された」と創世記1:1にあります。創り主は、素晴らしい宇宙、地球を創りました。交わりを持てるように人間を神ご自身の形に創りました。人間は、神ご自身を自分の拠り所・郷として楽しんでいました。それで、創世記2章、神は、人をエデンの園、地上の故郷の中に入れ、全ては、とても良かったのです。でも、創世記3章、人は、神様の言葉を信じ従うよりも、サタンの言葉に聞き入れました。その時、全てが変わりました。神との深い交わりが閉ざされ、故郷である園から追放されました。この人間の罪の結果、死、病い、飢餓、戦争などが広がって行きました。カインは、創世記4章、自分の兄弟まで殺し、放浪者となったのです。人類は、皆、放浪者となったのです。でも、ルカ15章、勝手な生き方をしても、真面目な生き方をしても、実は、人の心は、神から遠いのです。。。でも、生ける神の愛は、素晴らしいです。全ての人に、御子イエス様を通して、声をかけているのです。救い主イエス・キリストは、自ら天の郷を捨て、十字架上で、こう叫びました。「わが神、わが神。どうして私を見捨てたのですか?」主イエスは、私たちの代わりに、父なる神に見捨てられることによって、私たちを回復し、私たちを迎え入れたのです。私たちは、ただ主イエスを信じ仰ぐことによって、まことの郷である創り主に帰れるのです。主イエスは『全てを回復する』と復活を通して宣言しました。キリストの再臨の時、この世界をエデンの園以上の故郷に回復するのです。。。。。『自分は、この世界は、何か変だ』と思うあなたは、この神、この素晴らしい故郷を待ち望めるのです。。。でも、この故郷は、どのような所でしょうか?
1.1節前半、5節、私たちが待ち望んでいる故郷は、全く「新しい」ものです。この「新しい」という言葉は、4回も出てきます。1節「新しい天と新しい地」2節「新しいエルサレム」5節「すべてを新しくする」。期間のことを言っているのではなく、質(輝き、美しさ、力、鮮明さ)のことを言っているのです。。。アルプスの山々を見ると、素晴らしいです。でも、新天新地は、よりより素晴らしいです。子供がクレヨンで上高地を書いたとしましょう。それを本物の上高地と比較できるでしょうか?比べ物になれません。今の世界は、新天新地と、比べ物にはならないのです。。。私たちの体でさえ真新しくなるのです。私たちの体は、今5感覚を使いますが、新天新地では100感覚、1000感覚でしょうか?。。。新天新地の希望があるから、今全てを治めている方を仰ぎ、今日も新しくされ、力が与えられるのです。
2.1節後半、4節、私たちが待ち望んでいる故郷には、「以前のもの」は全くないのです。1節後半「以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。」えー?「海」?海は、当時、悪の象徴でもあったのです。昔の人にとって海は、あまりにも怖いところでした。黙示録を書いたヨハネはエーゲ海の孤島パトモスに流され、波は、止まらなくて、荒れて狂い出す時もあったのです。海さえなければどこまでも歩いて行けるのです。しかし、いずれ、その日には、そんな「海」は無くなるのです。悪は、全てなくなるのです。
4節「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」強調して、徹底的に言われているのです。「もう2度と涙しなくてもよいように、涙の本となる『死』も『悲しみ』も『叫び』も『苦しみ』も、一切をとりのけてくださるというのです。」「新天新地」は、そのような故郷なのです。創り主の親しい愛が見えます。神ご自身が彼らの「涙をすっかりぬぐい取ってくださる」のです。優しいお母さんが子供の涙を拭い去るように。「とても苦しかったね。絶対悲しくさびしかったでしょう。よく耐えたね。えらかった。さあ、わたしが拭いて上げるから。」
3.2節、私たちが待ち望んでいる故郷は、キリストの教会に与えられるのです。2節「聖なる都、新しいエルサレム」は「夫のために飾られた花嫁のように整えられ」た教会の事です。天国に召された小畑進牧師は、この「新しいエルサレム」のことをこう言っています。「この都こそ、教会のヒナ型であり、教会はひたすら『神より』出て、『天より』のものであったことが示されるのでもありました。」キリストの教会は、私たちクリスチャンは、全く新しくされるのです。「花嫁のように」とあります。。。教会は、私たちイエス・キリストを信じる者は、シンデレラのようです。灰で真っ黒になっていたシンデレラは、王子に出会って、美しいシンデレラ姫と変えられたのです。彼女は、素晴らしいウェディングドレスを着て、最高の仕合わせに入ったのです。。。私は、奈帆との結婚の写真がいくつかヘアに飾っています。が、結婚式前に、花嫁衣裳を着つけて、鏡に立ったときの花嫁の声は、こうでないでしょうか?「あ―れえ?これ私!」私たち、キリスト者も、そうです。罪の中にいた者が、美しい主の「花嫁」となったのです。この教会、この私たち、が新天新地に預かれるのです。
4.3節、6節前半、私たちが待ち望んでいる故郷は、生ける神が豊かに臨在するところです。三回かさねて書いてあります。「神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて。」地上の故郷の新天新地以上に、神様ご自身が真の故郷なのです。。。「幕屋」は、神の臨在を意味しています。昔、神殿が建てられる前、荒野をさまようイスラエルの民の間に、幕屋が建てられ、神がそこに特別にいたのです。後、イエス様が体を持って来た時、キリストが私たちの間に住まわれた「幕屋」だったのです。でも、この箇所のように、終わりの時には、神は完全な栄光のうちに現れて、人々の中に宿るのです。私たちの故郷の「新天新地」にさらに、真の故郷だる神ご自身が確かに豊かに臨在するのです。。。これで、また神の愛を実感します。小畑進牧師はこう言っています。「これこそ、エデンの再現よ、という人がいます。たしかに、あのエデンでは、アダムは神と言葉をかわしていました。でも、でも、それは不安定でした。壊(こわ)れる状態でした。しかし、ここはや恒久不変な(こうきゅうふへん:いつまでも変わらない)のです。神は私たちと住み込まれてしまうのです。」私たちは、今日でも、神の臨在を実感しています。けれども、将来、私たちは、神とともにいわゆる「住み込む」のです。これほど豊かで、私たちを潤すことはないのです。その時、神をもう見失おうにも見失うことができないのです。栄光の恵み深い神と面と向かって住むのです!
5.5節後半、6節前半、私たちが待ち望んでいる故郷は、本当にある所です。このような新天新地のような『話は良すぎる』と思うのです。夢か!?と思うのです。だって、当時、ヨハネは、島流しされていたし、教会は、迫害にあったのです。今でも、新天新地は「現実離れ、科学的ではない」と言ってしまうのです。でも、こうあります。重ねて言っています。5節後半「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である」のです。夢でも、妄想でもないのです。6節前半、もうすでに、起こったかのように「事は成就した」と言っているのです。また、生ける神は「アルファであり、オメガである。最初であり、最後である」神です。聖書の神は、事を始めて、事を全うする真実な神です。神は、最後までこれを見届けるのです。。。人間の改革は、いずれも中途半端で、時とともに汚れて、腐敗して行きます。新大陸のアメリカも古び、病める世界となりました。明治維新もそうです。昔の宗教改革者も、こう言っています。「改革された教会は、また常に改革されて行かなければならい。」でも、この箇所の本当に実現する新世界は、決して古びることはないと、主は保証しているのです。。。人間は、ものごとを始めます。が、最後まで見届けません。画家のアトリエには、描きかけたままの捨てられているカンバスがホコリをかぶっています。けれども、神のアトリエでは、すべて完成しているのです。現在は、神の救いの計画は、途中であって、私たちから見て、チグハグに見え、何の意味もないような、理解しにくい点や線だけがあるようです。でも、完成すると、神の救いの計画の全体像が見え、私たちは、驚き、感動する時がきます。今でも、感動し始めているのです。
6.6節後半、7節、私たちが待ち望んでいる故郷は、「乾く者」と「勝利する者」に与えられるのです。6節後半、「乾く者」。山の峠(とうげ)の茶屋の風景のようです。長い旅をし、江戸から中山道を歩いて軽井沢の宿の手前にある茶屋のようです。喉渇いた旅人は、年老いたおばあちゃんからお茶と団子をふるまってもらうのです。天と地を創った方が、十字架にかかれた方が、その大いなる御手で、また、その釘の跡の手で、私たちをもてなし、喉を潤して下さるのです。それもまた「価なしに。」一銭も払わないで。。。こう思うのです。「そうです。わたしは、不十分で、罪深い汚い者です。が、私は、渇きます。渇きます。主イエスよ、私は、あなたを必要としています。」恵みによって、新天新地に入れて下さるのです。。。そして、7節、「乾いた者」が「勝利する者」となるのです。私は、高校生の頃、何回も、レスリング大会で、審判によって手を高く挙げられました。トロフィーも、もらいました。主は、恵みに生かされた、主を信じ続ける者の手を上げ、勝利者であることを述べて下さいます。。。さらに、神の感動が伝わってきます。「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの子となる!」私たちを子とする、親となった主の感動です。
7.8節、私たちが待ち望んでいる故郷は、「火と硫黄との燃える池」と全く違うのです。心が乾いてない者、勝利を得ていない者が、この8節のリストに出てくるのです。「おくびょう者、不信仰の者」等です。「受ける分は、火と硫黄との燃える池。。。これが第二の死」です。。。「地獄」を語ると、世間は、笑います。あるクリスチャンは『神は、愛ですから、永遠の裁きはない』と言ってしまうのです。私たちは、しばしば聖い聖なる生ける神様よりも、都合の良いような自分の思いで作った『神』が欲しいのです。神の正しい裁きを聞きなくないのです。でも、聖書は、真実です。真の神には、慈愛と正義の両面があるのです。「火と硫黄との燃える池。… 第二の死」は確かにあるのです。使徒信条にこうあります。「生きている者と死んでいる者とを審(さば)かれます。」。。私は、あなたは、どうでしょうか?主イエスを確かに仰ぎすがっていますか?極めて大事なことです。あなたの家族は?友達は?隣人は?。
同じ使徒信条に、主キリストは「陰府(よみ)にくだった」とあります。不思議に、イエス様は、死なれた時に、「火と硫黄との燃える池」まで下ってくださったのです。ここに神の聖さと愛があるのです。私たちが永遠の郷、新天新地に預かれるように、主は、天の郷を離れ、十字架上で私たちの代わりと成って罰を受け、地獄まで行って下さったのです。私たちが郷に神に帰れるように、新天新地の恵みに預かれるように、安らげるように。そこまでしてくださったのです。恩方を真に信じ仰ぎ安らぎましょう。恩方を真に信じ仰ぎ安楽がなければなりません!必ず!絶対!
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