2019年10月15日火曜日

『帰る』 ルカ15:11―32


まず、ルカ15:11―32を呼んでください。ルカによる福音書 - 章 15


私は、小学校の2年生の頃から東京の寮とアメリカンスクールに行っていました。正直言って、結構辛かったです。でも、はっきり覚えている事は、松本に帰って来たら、親は、大喜びで迎えてくれたことでした。私たちは、秋に1週間、クリスマスに2週間、春に1週間、夏に3ヶ月近く郷の松本に帰れたのです。金曜日の晩、アズサに乗って、帰って来たのです。クリスマスの頃は、山梨県から長野県に入って、八ヶ岳のあたり『雪があるかな?雪があるかな?』っと窓をのぞいて、山をじっと見ていました。親は、英語などで忙しかったから、松本駅から、タクシーに乗って、今の美術館の前にあった、松本聖書福音教会まで行きました。そして、入ったら「ジャン、デーブ、デンお帰り!」と親は大喜びでした。お袋が私たちのお気に入りの食事ばかり作って下さいました。すき焼き、ジンゲスカン、ストロガノフ。クリスマスは、最高でした!一年中貯金して、家族皆で、白馬などで何泊もして、スキーしに行きました。親と離れていたのは、辛かったです。が、郷に帰るのは最高でした。帰る時、親の愛が豊かにあったのです。。。なら、どうでしょうか?なおさら、生ける神の愛はそうです。

1。愛の必要性:放浪する息子たち。ルカ15:11「またこう話された。『ある人に息子がふたりあった。』」「ふたり」です。放浪する息子は、弟のいわゆる「放蕩」息子だけではなく、後に出てくる兄も、放浪していたのです。心の放浪です。

1219、弟の放浪。弟の方は、まっこうから、見えるように放蕩したのです。12節、弟は、父親に「財産を全てくれ」と言ったら、父親は、分けてやったのです。13節、普通財産をもらう時は、父親が死んだ後です。弟は、父親に「死ね!」と思っているのです。。。数日たって、弟は、「何もかもまとめて遠い国に旅立った」のです。放浪、いや「放蕩」の始まりです。13節後半「そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。」14節「何もかも使い果たした。」

快楽主義でしょうか?このようにして、放浪し、放蕩する人はいます。「神なんかいないし、いらない。聖書の掟なんか関係ない。好きなように生きる。」自己中心的な快楽によって、神から出来るだけ遠く離れていたいのです。キリスト教を信じると、楽しみが無くなると思うのです。何の要求もされたくないのです。教会には、行きなくないし、聖書は、学びたくないのです。

2532、兄の放浪。兄は、父の近くにいます。体は。しかし、心は、父から遠いです。25節「ところで」という言葉で、話が続きます。話の主なポイントの一つです。「兄息子は畑にいた」とあります。26前半、自分自ら近寄って入るよりも「しもべのひとりを呼んで」、遠くから状況を聞きました。弟の祝宴を聞いて、28節「兄は怒って、家に入ろうともしなかった。」心は遠いのです。心の放浪です。29節「しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。』」兄は、真面目。努力家。ルールを守っている。完璧。彼は、自分のレジメ、履歴、功績を誇っているのです。道徳的に立派ですが、偽善者です。お父さんに多くしゃべっているのです。建前は、父親に近かいですが、本音は父親から遠いのです。が、2224、父が喜ぶ所からは、離れているのです。体は近いですが、心は、遠く、放浪しているのです。

『クリスチャン』と名のる私、私たちは、兄にとても似ている可能性があります。どうしていわゆる『罪人』は、教会に引かれないのでしょうか?聖書の恵みを忘れて、聖書の高い基準で自分を、人を裁いたりしてしまうのではないでしょうか?私達には、パリサイ的な高慢な心があるのではないでしょうか?。。。また、兄は、日本人と似ています。私も、日本で生まれ、育った者です。日本人は、道徳的です。少なくても、建前では。犯罪の少ない国です。経済的にも、教育的にも、文化的にも、優れています。でも『神なんか、救い主なんか、キリストなんか、いらない』と思うのです。。。自ら正しいと思う人こそ、神から一番離れているのです。道徳的な人こそ神に帰りにくい、近寄りにくいのです。自分は、立派だとう思うからです。。。道徳主義者は、こう思うのです。『私は、この放蕩息子のように悪い事をしていない。私は、犯罪を犯していないし、人にも迷惑をかけていません。他の人と比べて良い人だと思う。』確か、人の基準から見て、真面目なのです。。。でも、神の基準、聖書、から見てどうでしょうか?自分の歩みをキリストの歩みと比較したらどうでしょうか?本当に自分は、隣人を自分のように愛しているでしょうか?正に「兄」であり、道徳主義者です。神、郷、拠り所から遠いです。とてもとても悲しい事です。私も、アメリカ人も、日本人も、あなたも、同じ罪人です。。。しかし、28節、この箇所のように、神が「出て来て」、31-32、道徳主義者にも、私とあなたにも、アメリカ人と日本人にも、声をかけているのです。

2。愛の源:二人を愛するお父様。父親業を20年以上やって、私の愛がどれほど足りないかをとことん感じます。子供が小さい時、怒ったり、忙しすぎたりして、子供を尊び、顔と顔を合わせて聞いてあげたりしませんでした。どんなに私の父親の愛は、足りないか、とても悲しい事です。。。でも、神の愛は、違います。快楽主義の弟、真面目な兄、二人とも愛されています。。。お父さんの接し方を見ましょう。。。接続詞の「ところが」が聖書の最も特別な言葉の一つです。。。「ところが」。。。20節「ところが父親は」。22節「ところが父親は

2024、弟への愛。。。仏教にも放蕩息子(ちょうじゃぐうじ)の話があります。でも、仏教の話では、帰る時、息子は父を恐れます。和解できる前に何年も何年も働かされます。仏教の放蕩息子の話には、父がたくらんで、歓迎する前に、息子を働きに行かせます。そして、後で、お父さんの方から近寄り、こう語ります。「心を楽にしなさい。私は、いわゆる『あなたの父』です。もう心配しないで。なぜ?私は、年取って、あなたは若くて元気です。あなたが働いている間、あなたは、嘘ついたり、怠ったあり、怒ったり、文句言ったりしなかった。あなたは、他の働き人が犯したような罪を犯したのを見た事がない。今から、あなたは、私の特別な子になる。」働いたから、良い子になってから、やっと帰り、息子になれるのが仏教です。

聖書の放蕩息子の話は、対照的です。違うのは、恵です。立ち返る弟に対して、父は、どう返事するのでしょうか?20節ところが、まだ家までは遠かったのに」。で、動詞を見てください。「走り寄る愛」と滝元明先生が言いました。英語では、名詞が大事です。が、日本語は、動詞が大事です。一、20節、「見つけ」。二、「かわいそうに思い」。三、「走り寄って」。四、「抱き」。五、「口づけした」。六、2223、「しもべたちに言った。」で、言った言葉の中の動詞を見てください。七、『急いで』。八、『一番良い着物を持って来て』。九、『着せ』。十、『手に指輪をはめさせ』。十一、『足にくつをはかせ』。十二、『肥えた子牛を引いて来てほふり』。十三、『食べて祝おう』。息子の回復を覚え喜び、十四、『死んでいたのが生き返り』。十五、『いなくなっていたのが見つかった。』。。これが神の私たち立ち返る者に対する深い愛を例えているのです。これが私たちに対する豊かな豊かな神の愛です。エペソ2:4「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに」とにあります。

2832兄への愛。不審に思う、近寄らない、心が遠い、心が冷たい、兄に対して、この話の最後のほとんどが向けられています。ポイントでもあります。28節、兄が父のところに行くべきなのに、父は謙虚に「出て来て」とあります。時間をかけて説明し、丁寧に説得しているのです。。。28節後半、叱らず「いろいろなだめてみた」のです。。。2930、「しかし兄は父にこう言った。」父は、息子の話をしっかり聞いたのです。。。31節、兄も、常に父の恩恵を常に受けていたのです。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。』でも、真理を変えなかった真実な愛でもあるのです。32節『いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』父親にとって兄息子も、弟息子と同様に、極めて大事なのです。。。でも、この放蕩息子の話は、実は、兄の話なのです。兄のような人たち私たちの為なのです。

レンブラントの油絵「放蕩息子の帰還」を見て下さい。レンブラントは『光と陰』で有名です。光は、お父さんと放蕩息子にあります。恵は、ここにあるとレンブラントは語っていると私は理解しています。放蕩息子は、謙ってお父さんの足下にひざまずいています。お父さんは、両手を愛情持って放蕩息子の肩に置いています。しかし、陰は、右側の兄の方にあります。彼は、弟を上から見下しています。恵みは、ここにはないように見えます。。。しかし、兄のような人にも「恵みの栄光」が必要なのです。

1421「帰る」のです。弟のような快楽主義者の私達のために、兄のような真面目な私達のために、創り主の天の父に帰るお手本は、あるのです。弟にあるのです。。。先ず、神の摂理を見てください。14節「その国に大ききんが起こり」ました。困難が帰るきっかけになるのです。1416「彼は食べるにも困り始めた。」最低です。15節前半、人に寄らざるをえない。15節後半、汚い豚の世話をさせられる。16節前半、汚い豚の餌まで食わなければならない。16節後半、誰も気にかけてくれない。。。神は、状況、自然、飢饉を用います。摂理によってをも使います。が、人は、頼りないことをも教えます。困難は、私たちを神に近よせる大事な恵みです。

弟の態度を見てください。1718、飢饉のおかげで、神の摂理によって、彼は「我に返った」のです。『父のところには。。。』と。。。4回も繰り返してありますが、1821彼は『罪を犯し』た、と認めたのです。私たちの罪は、先ず、人に対してではなく、天の神に対して罪を犯したと、認めるのです。自分の高慢を認めるのです。。。彼は、謙虚でした。19、21「子と呼ばれる資格はありません」と2回も書いてあります。。。自分を正直に見るのです。罪を認め悲しむのです。あまりにも足らない自分の善、パフォーマンス、功績、行い、ベストを否定するのです。


でも、肯定的に、20節彼は、父に向かって行ったのです。20前半 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。」彼は、帰ったのです。。。方向転換したのです。私は、ある方にこう例えました。あなたは、イエス様を背にして歩いています。が、イエス様は、あなたの肩を叩きます。そして、あなたは、振り向いて、イエスに向くのです。主の十字架にを仰ぐのです。。。主は、天の郷を離れ、人によって除け者にされ、罪が一切ないのに、犯罪人扱いを受けたのです。十字架上で、私たちの罪を代わりとなって、負背負ったのです。また、復活しました。このイエス様の後に付いて行くのです。従うのです。。。生ける神に、その愛に帰るのです。愛の神に安らぐのです。恵にどっぷり浸かるのです。父のふところに飛び込むのです。。。帰って、その恵の鼓動を聞くのです。14世紀ごろの思想家・聖職者トマス・ア・ケンピスは、こう言いました。「喜びて神のささやきの鼓動を聞く人は、幸いなり。」

この世の父親母親の愛には、あまりに限度があるのです。痛い程知っています。父親の私は、もちろんです。素晴らしい宣教師であった私の父親母親でもそうでした。奈帆のような立派の母親でもそうです。でも、真の親である神の愛は、間違い無いのです。豊かに豊かにあるのです。そして、この恩方のふところに飛び込むのです。帰るのです。

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