2018年11月26日月曜日

御名が崇められますように



出エジプト記 20:7「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。

マタイ6:9「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。。。」』


20年ほど前だったでしょうか、寿台の英会話教室で「オーマイガツ」とある坊やが言いました。何を言っているかは、知らなかったと思いますが、それでも私は、彼を注意しました。「御名を、みだりに唱えて」欲しくなかったのです。今は、テレビでちょくちょく聞きますね。アメリカではジーザス“と軽く言ってしまいます。クリスチャンでも、あまりにも軽く「主よ、主よ」と言ってしまいそうです。。。でも、言葉以上に、本当の問題は、心なのです。生ける神は、いわゆる「重みのある方」なのに、軽く見てしまっているのです。だって、安室奈美恵を「神」や「女神」と言ってしまう世の中ですから。。。7節「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」

1.「主の御名を、みだりに唱えてはならない」その意味。「みだり」の意味は、知っていますか?あまり使わない言葉ですね。辞書にこうあります。「勝手気ままなさま。ほしいまま。(または)考えの浅いさま。思慮(しりょ)のないさま。」このように「主の御名を、みだりに唱えてはならない」のです。神の名前を、ただ普通に使わないように、なれなれしく使わないように、軽んじて使われないように、不真面目に使わないように、心がこもってないように使わないように、注意しているのです。。。逆に、肯定的に、御名の重みを考えて、最高のものとして、尊く扱われるように、命じているのです。主の祈りの「御名が崇められる」事がキリスト者の一番の願いです。。。ただ名前だけを大事する事ではないのです。名前は、その方自身を表しています。神御自身が崇められる事を意味しています。愛されるべき、超越した方であります。。。ウエストミンスタ―小教理問答にこうあります。「神の御名、称号(しょうごう)、属性、規定、御言葉、御業を、きよく敬虔に用いることです。」宗教改革のマルティン・ルターは、こう書きました。「私たちは、神様を畏れ、愛するべきです。ですから、私たちは、この方の御名によって、呪(のろ)ったり、誓ったり、魔術を行なったり、嘘をついたり、だましたりしないで、むしろ、どのような困難の中にあっても、御名を呼び求め、祈り、ほめたたえ、感謝するのです。」

私の30才頃だったと思います。夏の軽井沢の宣教師団体TEAMの年会でした。ちょうどお昼ごろで、解散するところでした。ユニオン教会から出て来て、私は、長野と松本ナンバーの黒い車を見ました。少し邪魔だったと思ったのでしょうか、私は、その車の移動をお願いしました。「すぐ移動します」と言われたら、どうでしょうか?現在の陛下夫妻、当時の皇太子さん達、の車でした。そして、2人は、私たち家族に向かってくるのです。妹のルーシーもいました。アロハシャツを着ていた父は「久しぶりです」と言ったり、母は「祈ってます」とミチコさん言ったりしました。私は、ただただ緊張して「初めまして。初めまして」としか言えませんでした。。。陛下さんの名前は、明仁(あきひと)です。でも、私たち庶民は、もちろん呼び捨てにはしないのですが、「明仁様」とも言わないのです。「天皇陛下」と普通は言うでしょう。2人は、尊敬に値する人物です。でも、彼らは、神ではなく、ただの人間です。ある方は、戦後の陛下さんのいわゆる「人間宣言」を覚えています。尊敬されるべき人間ですが、2人よりもずっとずっと恐れ、敬い、愛するべきお方がいるのです。生ける真の神です。。。生ける神を崇める理由があるのです。

2.「主の御名を、みだりに唱えてはならない」その理由。(1)主は、正しく裁く神ですから。7節後半「主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない。」罰も伴います。これも、理由になります。ウエストミンスタ―小教理問答にこうあります。「第三戒に加えられている理由は、この戒めを破る者がどんなに人々からの罰を免れても、私たちの神、主は、御自身の正しい審判を免れさせはなさらない、ということです。」。。でも、それ以上に、(2)神は、創造主ですから。創世記1:1「初めに神は、天と地を創造した。」主は、栄光の神で、天地宇宙、人間も創られた偉大なお方です。ですから、心から敬い、御名を大事にするのです。。。(3)主は、救いの神ですから。出エジプト記20:1―2にこうあります。「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。」私たちを罪から救ってくださったから、私たちは、主に感謝し、敬うのです。。。昔のユダヤ人にとって、神の名前『ヤーウェー』は、あまりにも特別だったから、聖書のを読む時、会話な中でも、『ヤーウェー』という名前を絶対口にしなかったのです。年に一回だけ大祭司が口にしたのです。それは、固すぎると思うかもしれませんが、私たちは、周りの神々と一緒にして、あまりにも生ける神を軽く考えてしまうのです。

私たちは、御名を崇めるはずなのです。私たちは、御名を崇めるべきなのです。申命記6:5「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と一番大事な掟にあります。コロサイ3:17「あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。」ウェストミンスター小教理問答にこうあります。「人のおもな目的は、何ですか?人のおもな最高の目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」

私たちは、言葉だけではなく、全てにおいて、心から、主を貴ぶべきです。1、心から主を貴ぶのです。賛美歌を歌う時、主の祈りを唱える時、心からしていますか?祈る時、歌う時、神の偉大さ、恵み深さをよく考えてするのです。味わいながら、噛みしめながら、礼拝するのです。。。2、全てにおいて主を貴ぶのです。教会だけでではなく、私たちが家で、会社で、学校で、娯楽で、主を貴ぶのです。偽善的なサンデークリスチャンでは無く、真実なエブリーデークリスチャンであるはずです。

繰り返すようですが、キリスト者は「御名が崇められるように」祈り、常にそう願っているのです。宗教改革のマルテン・ルターは、このように言っていました。「全て洗礼を受けたキリスト者は、神の名によって受けています。正に、キリスト者です。聖い神様の名前を持っているものとして、その名を汚さないように、その名を大事にするように、この(主の)祈りを通して、神の力が与えられるように願っているのです。この世での神の代理人として私たち自身も、聖い人になるように、祈っているのです。これが生活を変えて行くのです。」

ベシー・リーという女性がテム・ケラー牧師の礼拝に来ていました。メッセージした後、彼女は、牧師にこう言いました。「あなたは、私の人生全てを変えました。でも、常識ですね。私が、先ず、神を崇めるようになったら、ものごとを正しく見えるようになりました。。。」私達は、あらゆる分野で「御名が崇められるよう」願い、讃え、また実践するのです。教会で、家庭、学校、近所、職場、娯楽で。

1980年代の後半、「3K」と言う表現がありました。1989年に流行語にノミネートされました。「危険、汚い、キツイ」の頭文字から来て、嫌われる職場について言っていました。でも、いける神様から見ると、どんな仕事でも、聖職者の仕事と同様に尊いのです。どんな仕事でも、神の栄光のためにするのです。マルテン・ルターは、こう言いました。「貧しい乳搾りの女が、信仰もって乳搾りをするなら、カエサルやアレクサンドロスの制服と勝利よりも、栄光に満ちている。」例えば、あなたは、神の栄光のために、家や職場や町内をほうきで掃除していれば、あなたは、どんな偉大な説教者と同様に、神を崇めています。

映画「炎のランナー」で主人公エリックライデルは、1924年のオリオリンピックに行くことになっていました。でも、彼の100メーター競技が日曜日だったのです。エリックは、神の栄光のためには、安息日(主の日)には、けして走らないと決めていました。彼は、100メーターを辞退し、代わりに普通走らないより長い400メーターにしました。練習は、足りなかったですが、400メーターと200メーター両方で金をとりました。400メーターを走る前に彼は、アメリカのチームメンバーから1サムエル2:30のみ言葉をもらいました。「わたし(神)は、わたしを尊ぶ者を尊ぶ。」

私の高校生の頃、長距離競争のクロースカントリを走っていました。バスで20人程の高校生が”To God be the glory”(神に栄光あれ)を試合会場に行く途中歌っていました。「おおみをほめまつれ、きぬいのちえんと、ひとり子をも惜(お)しみなく、世人(よびと)のため下したもう。ほめよ、ほめよ、神の、歌え、歌え、主御業その御業現れし父なるみを。」

私は、非常勤として信大で13年ほど働いて来ました。ある時期、常勤の先生と同じくらいの7クラスを教えていました。英語を教えることは、一番好きなことではないのです。しかし、福音によって内側変えられて、私は、神の栄光のために、学生を大切にし、一生懸命教えて来たつもりでした。。。あなたも「キリストの香りを放て」ます。

直感に反することですが、神の栄光は、十字架上で一番素晴らしく現われました。7節後半「主は、御名をみだりに唱える者を、罰せずにはおかない」とあります。が、不思議です。十字架の周りの人が、主イエスの「御名をみだりに唱え」ていたのです。私たちの心の中に、そのような神を冒涜する心があるのです。)でも、十字架上で「罰」を受けていたのは、彼らではなく、私たちではなく、主イエスでした。主は、彼らを赦していたのです。私の罪、冒涜、を赦していたのです。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているかわからないのです。」この敵を赦すキリストの言葉を聞くと、身代わりの十字架を見ると、キリストの栄光が分かります。その名は、麗しいのです。この名の尊さ、この方の尊さを覚えると、7節「あなたは、あなたの神、主の御名を、みだりに唱えてはならない」だけでは無く、「御名を崇め」たいのではないでしょうか?

どうでしょうか?あなたは、イエス様の名前をただ口にするだけでも感動しませんか?本物のクリスチャンは、イエス様の名前が大好きなのです。その名を言うだけで楽しくはありませんか?心が燃えませんか?繰り返すのが好きではないでしょうか?喜びませんか? 「皆が崇められますように。」

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