(キリストの十字架について)
先ず、聖書のマタイ27:45ー53を読んで下さい。
日本人は、特に、古里を大事にします。特別な思い出があるのです。「ウサギ追いしかの山。こぶな釣りしかの川、夢は今も巡りて、忘れがたき故郷。。。」私たちの故郷信州を描いて童謡ですね。でも、故郷に期待を持って帰ると、多くの場合、がっかりします。テモシー・ケラー牧師はこう書いています。「一口に『ホーム』(古里)といっても、それは、私たちにとって影響力の強い、けれども同時に、何ともつかみどころのない概念だと言えます。」お正月で、期待して古里に帰って、がっかりした事は無いでしょうか? CSルイスは、こう言っています。私たちは、本当は『霊的にホームシックだ』と。私たちは、常に放浪の旅をし、心の里になかなつけないのです。
昔、日本のコメティ映画「渋滞」を見ました。「秋葉原の電気店販売課長の林蔵(りんぞう)は、妻春恵と2人の子供と一緒に浦安に住むごく普通のサラリーマンです。正月休みは故郷の真鍋島(まなべしま)にみんなで帰ろうとするのです。12月30日午前6時15分、道路が混み合う前に出発しようと、高速道路に乗ったのです。が、さっそく渋滞に巻き込まれてしまうのです。日が暮れて来て野宿するハメになってしまうのです。次の日の朝、もう混んではいないだろうと思い、気を取り直して出発するのです。が、今度は事故で大渋滞です。それでも何とか地図で裏道をみつけ、渋滞を逃れたものの警察のネズミ取りに捕まってしまう始末です。さらに米原あたりまで来ると、今度は雪によって車がスリップ、あぜ道に落ちてしまうです。こうして1月1日になるのです。『今度こそ真鍋島に帰れるぞ』と思ったら、息子大介が熱を出してしまうのです。さらに山道の中で車がガス欠になってしまうのです。もう里帰りを断念するつもりです。が、今度はUターンラッシュが始まり、結局郷の真鍋島へ行って彼らは短いながらも楽しい一時を過ごすのです。」私は、笑いながら、イライラして見ていました。。。でも、考えてください。真の故郷を間違え、創り主に帰れない事は、イライラしてすまないし、笑い事ではないです。。。でも、聖書は、無事に帰れると言っています。キリストが十字架上で「見捨てられる」事によって、私たちは、神に受け入れられるのです。郷に帰れるのです。
創世記では、私たちは、神に造られ、エデンの園でのびのび生活していた、と書いてあります。神の愛とそれによる安心は、豊かにありました。しかし、私たち人間は、神の支配の下で不満でした。アダムとエバ、また私たち人間は、神に背を向き、離れてしまったのです。故郷を手放してしまったのです。病い、老いと死を体験するようになったのです。今でも、仕事場でフラストレーションを感じます。家庭ででもへだたりを感じます。人間の高慢で、この世界は、自然界を含めて、破壊されてしまっているのです。なぜでしょうか?罪が私たちの心に入ったからです。。。私達は、神に背を向ける、自己中心的な生き方を、今、認め悲しむ必要があるのです。神の引き寄せる愛を体験する必要があるのです。
創り主は、どのようにして私たちを引き寄せるのでしょうか?。。。主イエスとその十字架を通してです。。。主は、普通の家で生まれませんでした。馬小屋でした。大人になった時も、イエス様「には枕(まくら)する所もありません」でした。人に嫌われ、特に宗教家に除け者にされました。行政によって不正な裁判にかけられ、虐げられました。イエスは、都エルサレムの外で、一切の罪がないのに、犯罪人として十字架刑にされました。。。
今日の主な聖句は、マタイ27:46「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」この言葉は、イエス様の最も大事な時に語られた言葉でした。これは、神の最も大事な御性質と御心を表しています。私たちは、この言葉と出来事を最も理解しなければならないのです。。。そうです。私たちは、自分の罪のゆえに、神から引き離されるべきでした。でも、主イエスは、十字架上で、代わりとなって引き離され、死なれたのです。それは、私たちを、帰るべき父なる神の家に連れ戻すために、迎え入れるためにされたのです。
主イエスは、十字架上で、信じられないような苦痛を体験して「見捨てられた」のです。身体的な苦痛は、考えられないような痛みでした。メル・ギブソンの映画「パッション」は、十字架刑を恐ろしく描いているのを覚えていませんか?「十字架刑の前に、むち打たれました。背中の皮がちぎれ、血にまみれて肉と骨は露出されました。大量出血で死亡するか、または失神する可能性があったのです。イエスはローマの兵隊にヒゲを抜かれ、とげのついた茨の冠が彼の額を突き刺しました。その後、イエス様は、十字架その物を処刑場まで運ばされました。100キロを軽く超える重い物だったそうです。長さ18センチ程の杭はウデに打ち込まれました。杭は神経の中央を突き通し、ウデと肩と首は激しく痛みました。十字架上で信じられないような負担が足と、ウデと、肩にかかり、関節ははずれそうになりました。また、衰弱しました。息を吐(は)きだしたり、深く息を吸い込むことも非常に困難になりました。息を吸い込むため、肺を膨張(ぼうちょう)させなければならないので、足を木に押し付け、体を延ばさなければなりませんでした。これは、何時間も続いたのです。。。足と肺の強烈な痛みと極度の苦痛で、呼吸することも困難となり、ついに窒息するのは普通でした。」。。でも、体の激しい痛みだけでは終わらないのです。
45節、自然界によっては「見捨てられた」のです。「暗くなって」とあります。主は、私たちの罪を背負っていたから、自然界にも、見捨てられたような感じでした。。。精神的な信じられないような苦痛を体験したのです。46節「大声で。。。叫ばれた」とあります。50節「そのとき、イエスはもう一度大声で叫んで、息を引き取られた」と書いてあります。主は、苦しくて、苦しくて、悲鳴をあげていたのです。体の激しい痛みよりも、精神的な痛みの方がずっと痛かったと思います。それは、次のこともあったからです。。。47−49、主は、人によって、「見捨てられ」、誤解され、馬鹿にされたのです。主は、すでに弟子たちに見捨てられています。47節、49節「エリヤを呼んでいる」と完全に誤解されました。39節、道を行く人々、41節、宗教家、44節、十字架につけられた強盗が「ののしった」とあります。主は、彼らを創り、救いに来たのに、馬鹿にされていたのです。
父なる神に「見捨てられた」のです。これが最大の苦痛です。。。46節「わが神、わが神!」この言葉は、神の契約に対するイエスの忠実さを表した信仰の叫びです。「私の二郎、私の愛子」とあまり日本では言わないと思います。が、欧米では、”My Johnny”とか”My Sally”と言うと、自分の家族、妻、子供のことを言っているのです。特別な関係にある親しさを表しています。深い愛の忠実さでした。。。苦しんでいるのに、文字通り『地獄』から、イエス様は「我が神、我が神」と忠誠を叫んでいたのです。「お父様、あなたを愛し続けます。」最後まで、主は、真実で、耐えない信仰と愛を父なる神に対して持ったのです。それなのに「見捨てられた」のです。私たちを獲得するために。
46節「どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」この叫びは、不思議でした。今までは、彼は、鞭打たれ、馬鹿にされ、釘打たれてきました。でも、ずっと何も言わなかったのです。でも、突然「我が神、我が神」と叫んだのです。彼は、父なる神との断絶を体験していたからです。健康、仕事、お金を失うことは、耐え難いですが、このように最愛を失うこと程酷いことはないのです。イエス様の天の父との関係は、30年、40年、50年足らずのものではないです。永遠の昔からあった関係です。互いに完全に全く愛していたのです。で、御子は、父を失ったのです。一番近い友達に捨てられるよりも、何億倍も辛いのです。永遠の暗闇を体験したのです。何かがほぐれて、崩(くず)れ、壊(こわ)れたのです。地獄まで行ったのです。。。。。。
「どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」どうしてイエス様は、自分を裏切り捨てる馬鹿にする人たちのために、ここまでするのでしょうか?。。。神様の目的があったのです。神のいたずらではないのです。主の十字架の苦しみに意義があると、ここで教えています。十字架の結果は何でしょうか?一つは、私たちを真に愛しているから、この十字架の苦しみと断絶を忍んだのです。。。また、十字架から、私たちの品性、世界の芸術、教会の慈善が流れて来るのです。。。でも、他もあります。
51−53、私たちが神に近寄れるように。この箇所では、これが最大の意義です。主イエス・キリストの十字架刑によって、信じられない事が起こるのです。自然界が動揺するのです。51節「地が揺れ動き、岩が裂けた」のです。52節、死んでいた「聖徒たちの体が生き返った」のです。。。でもまた、見えない霊的世界で素晴らしいことが起こるのです。イエス様が、死ぬと、51節「すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」のです。イスラエルは、昔から、特別な神殿で、神を礼拝していました。そのど真ん中に、最も神聖な聖所があったのです。誰も、入れないように幕があったのです。大祭司でも、年一回しか入れなかったのです。人と神様との間に壁があったのです。。。でも、その「神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」のです。誰でも、イエス様の十字架によって、生ける神に近寄れる、とこの出来事で分かるのです。イエスとその十字架を信じ仰ぐことによって、聖なる聖なる神に直接祈れるのです。ユダヤ人だけではなく、差別なく、異邦人も、日本人も、アメリカ人も。あなたも、私も。男性も、女性も。子供も、大人も。社長も、オーエルも。実際、今、イエス様を信じる信仰によって受け入れる、世界中の国々と人々が神様を今祈り讃えているのです。日の出る日本から世界に、賛美は、今日、広がっているのです。。。私たちの豊かな命キリスト教会に色んな国々の人がいます。昔は、エチオピア人、インドネシア人、カナダ人などいました。今も、フィリピン人、アメリカ人、イギリス人、日本人。イエス様の十字架のゆえに近寄れるのです。誰でも、ただ信じ仰ぐことによって。
私たちは、しばしば、神に『見捨てられた』と感じるのです。精神的にそう思ってしまうのです。でも、今日の生ける神の御言葉によると、私たちがけして捨てられないために、イエスは、十字架上で実際に捨てられたのです。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」主が捨てられていた時こそ、あなたを愛していたのです。失敗し、つまづく時も、あなたのそばに続けていてくださいます。。。ですから、私たちは、この方を続けて愛するのです。続けて、聖書を読み祈り、礼拝に来て、神を愛し隣人を愛し続けるするのです。。。十字架によって、故郷である創り主に帰れたからです。
世界で最も優れたテーマ、ストーリーや出来事は、自分を犠牲にして人を救うことではないでしょうか?身代わりとなる救世主です。助ける人は、何をするのでしょうか?レスキュー隊は、初め安全なところにいます。でも、誰かが危険なところにいます。危険にある人を助けるために、レスキューをする人は、安全を捨てて、危険に入るのです。そして、ある時は、最高の犠牲を払い、命を捧げます。命の危険にある人が命と安全に預かれるように。。。私は、忘れられません。ワシントンDCの近くのパトマック川でした。ジェット機が冬の川に墜落したのです。ある男性があの凍っていた冷たい冷たい川に何回も、何回も、飛び込んで、一人、二人、何にも、救い出しました。でも、助けているうちに、彼自身は、沈み帰らないものとなりました。でも、救われた方が帰れたのです。家族に帰れたのです。郷に帰れたのです。彼の犠牲によってです。。。主イエス・キリストは、安全を捨て、危険に入りました。死に向かって行って、命を捧げたのです。危険にある人が安全に入り、死ぬはずの人が命を得るために。。。私たちが命を与えるために、主イエスは、命を捧げたのです。私たちが、父なる神の故郷に帰れるように、郷を捨て犠牲となったのです。
私たちは、どうするのでしょうか?キリストの十字架の贖い償いを受けいれるのです。神に立ち帰るのです。ふところに飛び込むのです。救い主を仰ぎ、喜ぶのです。
